これは断言しておきたい。
日本代表がW杯や五輪で優勝したり、メダル獲得をしたとしても、それがそのまま、日本社会におけるサッカー文化の浸透を意味することには繋がらないだろう。
故に「SAMURAI BLUE 」や「なでしこJAPAN」の強化と試合結果に対し、メディアがこぞってそこに執着する姿勢を見せ、その姿勢にあてられた大衆が、W杯優勝、五輪金メダルを果たすために「有益」かどうかだけで、日本サッカーの現在地を評価する。この言わば当たり前とされている価値観がむしろ、サッカー文化が日本社会に浸透するのを阻害してさえいると私は考える。
実は、7月25日の昼過ぎに救急搬送され、その後4日間をICU(集中治療室)で過ごし、8月11日までの20日間弱、入院生活を送っていた。
この間に2度の手術を受け、それでも全く元通りにはなれなかったものの、救急搬送されてからの数日の間「いつ状態が急変してもおかしくない」と主治医から脅されていたと、後に家族から聞くに至り、つくづく自分の人生が儚いものだと、これを大いに実感させられたのだ。
体力的な衰えは、生きていく上でのあらゆる活力をあっけなく削いでいく。
だからこそ、自分がいま考えていることを 多少粗削りであっても、こうして書き留めておくこと。そこにまた立ち返ってみようと考えたのだ。
本題に戻る。
東京五輪に参加した日本代表U-24も、なでしこJAPANも、大会期間中を通し、様々な評論に晒された。
その中にはかなり辛辣な批判もあったし、逆にそれなりの評価をしているものもあったが、どちらにせよ、それらの評論は「日本代表の今後を考えると・・」とした文脈から述べられているものであったように思う。これは名もなきサッカーファンのSNSにおける発言も、サッカー専門メディアによる記事内容も変わらず。
しかしながら、こうした現象(「日本代表の今後を考えると・・」とした文脈から述べられている)は、なにも今回の東京五輪で初めて起きたものではなく、これまでもサッカーの世界大会が行われる度に繰り返されてきたサッカー界における「定番芸」でもある。
そして端的に言えば、これらの「定番芸」については、それが認識されているか否かは別として、電通が作り上げた「世界観」に沿う形で実施されているに過ぎない。
『日本サッカーが世界を舞台に活躍する』
W杯への出場に始まり、その舞台での勝利、トーナメントへの進出、そしてチャンピオンへの果てしなき道。
このベクトルを「補強」するストーリーは軒並み、電通の世界観に乗せられる形で商業化され、ただひたすらに消費されてきた。(消費型スポーツ文化)
「補強」するストーリーは枚挙にいとまがない。
五輪におけるメダル獲得もそう。彼らは次世代・日本代表としての成果を想像させる「補強ストーリー」となっていく。
欧州などへ移籍するJリーグ選手もそう。彼らは日本代表の力を裏付ける経験者として「補強ストーリー」になっていく。
欧州トップクラブでプレーする日本人選手は、「世界を舞台に活躍する」に値する経歴の持ち主として、「補強ストーリー」を構築する上で大きなカギとなる存在だ。
そして、このような電通の作り上げた世界観『日本サッカーが世界を舞台に活躍する』に対し、日本サッカーのあらゆるリソースが投入されればされるほど、あたかも日本サッカー界の目的や存在意義のほとんど全てが『日本サッカーが世界を舞台に活躍する』であるかのように錯覚されていくのだ。
ここで新たに断言しておきたい。
日本サッカー界の目的、存在意義は、決して『日本サッカーが世界を舞台に活躍する』というような矮小なものであってはならない。
維新以来、我が国が欧州列強に追い付け追い越せと、それまでの文化をかなぐり捨て、そこに生き残りの道を見出してきたのは事実。だからこそ、ことスポーツにおいても『日本が世界を舞台に活躍する』が非常に受け入れられやすい哲学であり続けているのも事実だろう。
だからこそ電通は、この大衆感情をマネタイズするべく『日本サッカーが世界を舞台に活躍する』という世界観の「補強」を彼らが日本サッカーに関わるようなった1996年以降、一貫して行ってきた。
そして実際に、98年フランスW杯初出場、02年日韓共催W杯、06年ジーコジャパンのドイツW杯などで、一定の「商業的成功」も見ることは出来たが、それによりさらに多くのリソースが、代表チームとその周辺にばかり注ぎ込まれ、ただひたすらに消費される傾向にも拍車がかかり、結果的にJリーグを含めた国内サッカーの空洞化も招いた。
ややこしいことはこれ以上書かない。
率直に書こう。
日本代表の試合を、その試合単体で楽しむ力のない人が多いうちは、残念ながら日本はサッカー文化後進国である。
「勝つには勝ったが本大会では通用しない」とか「欧州組抜きのメンバー構成だから参考にならない」とか「国内でいくら試合しても意味ない」とか、こうした発想は全て電通の作った世界観(消費型スポーツ文化)に侵された脳みそから出てくるものだ。
力のある若いJリーグ選手が、海外移籍するのを無条件に歓迎する人が多いうちは、残念ながら日本はサッカー文化後進国である。
プロサッカー選手は、商業化されている舞台(消費型スポーツ文化)で長く生き残ることが目的でもあるので、誰が作った世界観であっても、そこに乗っかってしまうのは当たり前。でも、単にサッカーを楽しみに生きている人にとっては、その決断を残念に思うこともあるはず。私はまだ三苫薫のプレーを生で観たことが無かった、彼の欧州移籍は非常に残念だ。
日本代表を扱うことが、サッカーメディアの中核にあるうちは、残念ながら日本はサッカー文化後進国である。
日本の既存サッカーメディアは、所詮は電通の作り上げた世界観『日本サッカーが世界を舞台に活躍する』の上で踊っているに過ぎない。そこに食い込めれば、一先ず命を繋ぐことが出来る。当然ながら彼らが、この根本的構造(消費型スポーツ文化)に批判のメスを入れることなどあり得ないし、新たなサッカーの可能性を模索し創出しようとする気骨も著しく欠けている。いや、欠けているからこそ躍らせてもらえているのだ。
先に
日本サッカー界の目的、存在意義は、決して『日本サッカーが世界を舞台に活躍する』というような矮小なものであってはならない。
と述べた。
では、お前の考える日本サッカー界の目的、存在意義とは何なのだと、こうした問いは当然あるだろう。
と言いながら、ここでは敢えて読み手の方に問いたい。
「あなたの考える日本サッカー界の目的、存在意義とはなんだろうか?」
これには正解はない。100人いれば100通りの答えがあるはずだ。
かなり粗削りな表現にはなるが、「サッカーがより多くの人にとって関わるべき対象となり得るように」これは私が一貫して大切にしているポリシーである。
そして、〔決して『日本サッカーが世界を舞台に活躍する』(消費型スポーツ文化)というような矮小なものであってはならない〕だけは私の中でブレようのない思いだ。
W杯で優勝したり五輪でメダルを獲る代表チームがあることと、サッカーが社会に深く浸透した、サッカー文化先進国になることは、異なるベクトルの向かう先にある。