書きたいことはあれど
約20日ぶりのブログ更新となってしまった。
ともあれ、Jリーグをはじめ日本のあらゆるサッカーシーンが休止状態にあることで、何も考えられなくなっていたわけではなく、ここしばらくは様々なサッカー当事者と、ビデオ電話などを使った意見交換をすることに注力していた。
そんなこともあって、実際は書きたいテーマが次々と沸いてくるのだが、なにせこの社会状況下にあって、コロナと切るに斬れないテーマを書こうとすると、得てして客観的視点を失いがちで、そういう意味でも、他者と言葉を交わしながら、自らの考えを構築していく作業が欠かせなかったなと再認識したりしている。
それにしても、2020シーズンのJリーグがスタートした2月下旬の段階で、もうすぐ梅雨になろうとするこの時期まで、依然として日本のあらゆるサッカーが完全休止に陥っていようとは、誰が予想しただろうか。
正直なところ私自身も、村井チェアマンが2月25日に「2月26日~3月15日の公式戦94試合の延期」を発表した時点で、「3月中旬は難しいだろう」と思いつつも、Jリーグの休止期間はせいぜい4月いっぱいで、GWの頃には万全の状態で再開されるだろうと勝手に思い込んでいた。
しかし実際には、未だJリーグは再開時期を明確にすら出来ていない。と言うよりもむしろ、時間が経てば経つほど、再開を可能とする判断基準のハードルは高くなっているようにすら感じられる。
コロナによって変容した日常
そのような状況にあって、我々の日常も大きく変容した。
「3密」「STAY HOME」が合言葉となり、4月上旬以降については首都圏を中心に緊急事態宣言下におかれ、一時は日本全体が休止・自粛状態にもなった。
人と人とが接する機会を可能な限り減少させ、人々は広範囲に渡る移動を自制し、ほとんど社会的認知度の無かったビデオ・WEB会議ツール「ZOOM」は、誰しもが知るところとなり、ネット通信ツールに疎い私でさえ、実際にこの目新しいツールを活用するまでになっている。
それもこれも、この新型コロナウイルスという謎の感染症ウイルスが、驚くほど強い感染力を持ち、免疫力の低い人の中には、検査による感染確認結果が出るか出ないかといった短い期間で、その命を奪われてしまうケースが頻発していることに起因し、それが同時に、現代の人間社会を成立させていた様々な行動様式の変容を強いている。
とは言え、この感染症ウイルスは「感情」も「哲学」も持ち合わせていないわけで、重要なのはこうして新たな行動様式を強いられる「意味」を人間社会が建設的に見出すことだと私は思う。
つまり、この新型コロナウイルスが人間社会に何を教えてくれているのか、そこに対し真摯に向き合う必要があると思うのだ。
その「向き合う」作業を繰り返してきたことで、私の中には1つの明確な思いが浮かび、図らずも、これまで自分が「社会が、日本サッカー界がこうであれば」と思って来たことへの「意味」を裏付ける形になってしまっている。
コロナが人間社会に教えてくれていること
新型コロナウイルスが人間社会に教えてくれていること。
その中で非常に大きな要素は「グローバリズム」から「ローカリズム」への回帰であるように私は感じている。
これをサッカーを例に挙げて話すと
「W杯や欧州トップチームで活躍する日本人選手」から「自身の生活地域にいつもあるチーム・選手」への回帰であり
「日本中或いは世界中を物理的大移動するサッカー市場」から「自身の生活拠点内で完結するサッカー文化」への回帰である。
そしてここに挙げた両者を比較した時に、「グローバリズム」のサッカーは「消費するもの」であり、「ローカリズム」のサッカーは「共存するもの」であると定義づけることも出来よう。
グローバリズム=経済的・消費的サッカー
W杯で大活躍し、誰もが知るような欧州ビッグクラブに迎え入れられ、日本人アスリートとしては破格の報酬を受ける選手、そしてその勇姿をネットのサブスクコンテンツで堪能するファン。
または、応援するチームを追いかけ、日本各地をくまなく移動し、時によりその行動範囲が外国にすら広がっていくサッカーサポーターの姿。
これらに価値が置かれてきたのだとすれば、それは間違いなく「経済的」「消費的」な意義が高かったからだろう。
しかし、コロナウイルスはこの数カ月の間に、そうした「経済文化」「消費文化」の多くを奪っていった。
もちろん、この先の社会にそうした「経済文化」「消費文化」の一切が消えてなくなるわけではないが、今回のような感染症といつまた人間社会が遭遇するのか分からない中で、これらの文化にかつてのような価値や意義を見い出すのも難くなるだろう。
何しろ、いまや旅客機はほとんど飛んでいないし、松尾芭蕉が生きていたとしたら「自粛警察」から
「年寄りがほっつき歩くんじゃない!」
と猛攻撃を受けていたであろうご時世なのだ。(もっとも、芭蕉が「おくのほそ道」の旅路を歩いていたのは彼が45歳の時だが。。)
つまり、
「休暇を使って海外旅行へ行ってきました」
と堂々と言いたくなる、そんな社会通念が少なくとも今は全く存在していないし、この先にいつ戻ってくるかも分からない。
ローカリズム=共存対象としてのサッカー
一方で「ローカリズム」のサッカーとは、「我が子とのボール蹴り」であり「地元にある高校サッカー部の練習を通りすがりに眺める日常」であり「日曜日の試合に向けて体調を整える行動」であり「地域で一番強いチームを肴に家族や友人と酌み交わす酒(ZOOMでも可)」である。
これらの全てに経済的要素が一切ないかと言えば決してそうではないが、プレーする選手が数億円を貰っていたり、ひと試合の運営費に1千万円掛かったりもしない。
つまり、日常にある些細な資金さえあれば、持続可能なサッカー文化でもあるのだ。
そして、こうしたサッカー文化は人々の「共存対象」として存在するからこそ、銀行から巨額融資を受けられなかったり、国税から税制優遇を受けられなかったり、外国企業から運営原資たる莫大な放映権料を受けられなかったりしたからと言って、消えてなくなることもない。
再認識しやすい「ご時世」
先で、【「こうであれば」と思って来たことへの「意味」を裏付ける形】と書いたが、私がこれまでに取材注力してきた地域リーグをはじめとするアンダーカテゴリーのサッカー世界、または日の目を浴びることの少ないあらゆるサッカー世界が存在する意味。
これが「消費文化」と「共存文化」という、コロナウイルスが突き付けてきた二つの文化価値を対比によって『スポーツとは本来、共存文化であるべきなのだ』という思いを私の中に生み出し、これまではほとんど無価値とされてきた「共存対象」としてのサッカー文化が持つ真の意義を気づかせてくれたように思う。
とは言え、勿論「消費文化」としてのサッカーを全否定するものではない。スポーツが持つ本来的価値「共存文化」としてのサッカーが備えている機能や可能性を再認識しやすい「ご時世」にあるということを言いたいだけだ。
サッカーが日本のあらゆる地域で「共存対象」になれるかどうか
まだ地域リーグにも昇格していない、さらに言えばチームを立ち上げたばかりで、県の最下リーグでスタートを切ったようなチームが「将来のJリーグ入りを目指す!」と仰々しく掲げているケースは、日本のそこかしこで見られる光景だ。
これこそが「消費対象」とならない限り、生き残っていけないと考える日本サッカー界の未熟さが如実に表れた光景だと言える。
「消費対象」ではなく「共存対象」であることに拘れば、巨額の資金も、極端な話、強いチームすらいらない。
それでも、そのチーム・コミュニティに「ローカリズムな価値」があれば、そこに触れた人々が、そのサッカー文化を絶やさないように努力するはずだ。
日本サッカー界は今、ダメージを受けるどころか、実はチャンスを与えられていると感じる時が、最近増えてきた。
サッカーが日本のあらゆる地域で「共存対象」になれるかどうか。
シビアな状況ではある。しかしコロナウイルスが無ければ、我々は、なかなかそれを真剣には考えようともしなかっただろう。