
ささやかな希望
集まって飲み会したい
帰省したい
お祭りに行く
スーパー銭湯とサウナに行きたい
カフェで読書したい
旅行する
ジム・ヨガ・ダンス・テニス・バレエ
卒業式で集まれなかったからもう1回みんなで集まりたい
カラオケ行きたい
バーベキューする
ラーメン食いに行きたい
とりあえずサッカー観戦
これらは全て、SNS上から拾ってきた「コロナが落ち着いたら〇〇がしたい」の〇〇にあたる部分。
政府の発した非常事態宣言により、大都市圏では「経済活動」が自粛要請の下、大きく制限をかけられ、いまや巷は「家にいよう」「Stay Home」の大合唱である。
そんな危機感に満ちた日常が社会全体に強いられる中、この暗雲たる毎日の先に訪れるであろう「コロナが落ち着く時」「コロナウイルスの終息」によって得られる「当たり前にあった日常」への回帰を心から願う、ささやかな願望が溢れているように思う。(中にはこの状況でも十分出来るものもあるが、それはそれで、心に何の曇りもなく遂行したいという気持ちの現れなのだろう。ただ敢えて言う、今もラーメン屋でラーメンは食えるし、庭先でバーベキューも出来る)
とは言え、この「コロナが落ち着く時期」に対する認識については、人によってかなり開きがあることが、ツイッター上で私自身が実施したアンケート結果には表れていた。
「コロナが落ち着いたら~」で想定する時間の感覚
このアンケートの主旨は、あくまでも市井の人たちが、コロナ禍に対してどんな時間感覚を持っているかを知ることである。そうしたことから、実施するにあたって(予想投票を目的としたアンケートではありません)という断りを入れた。
回答して下さった方の人数は112人、その中には私のツイッターアカウントをフォローしている方が多く含まれていることも推察出来るので、この結果が全てを物語っているとは言わない。
しかしながら、「コロナが落ち着く時期」を「1年以上先」と想像される方が全体の4割もいて、「半年後くらい(10月頃)」と併せると、全体の約7割もの方が、このコロナ禍と長期間付き合わざるを得ないと認識しているという結果は、少なくとも私にとって驚くべきものだった。
つまり、冒頭に挙げた「コロナが落ち着いたら〇〇がしたい」の中にあった、「集まって飲み会したい」についても、「帰省したい」についても「スーパー銭湯とサウナに行きたい」についても、「カラオケに行きたい」についても、多くの人が、それが叶うまでに結構時間が必要と考えているのだ。
そしてふと思う。我々はかつて、こんな時間軸で生きたことがあっただろうかと。
大病を患ったわけでもない、刑務所にぶち込まれたわけでもない、なのに「ラーメンを食べに行きたい」という願望を満たすのが、1年以上先になると考える。或いは「取りあえず、サッカー観戦」が出来るようになるのが、1年以上先になると考える。
何しろ、状況さえ整えば、今すぐにでも出来てしまいそうな「〇〇したい」が、1年以上も叶わない状態。
それをこの社会に生きる多くの人が抱いているのだとすれば、社会全体の価値基準にも大きく影響を及ぼすことも予想出来よう。
失われた「当たり前の日常」は必ず戻ってくるのか
「一年の計は元旦にあり」
恐らくは今、この社会で生きる1人1人に、これと同じことが突き付けられている。
この先にコロナウイルスの感染状況が、どのように展開していくのかは誰にも分からないが、既にJリーグもプロ野球も再開の目処すら立たず、子どもたちは学校に約2カ月通えていない。非正規雇用者の中には職を失う人も出始め、閉店を余儀なくされた店舗や、倒産に追い込まれた企業も現れ始めた。
つまり、こうして「当たり前だった日常」が徐々に失われ、場合によっては再起不能に陥っているのだ。
そのような状況にあって「カラオケに行く」ことも「お祭りに行く」ことも、必ず再び叶うとは言い切れない。
であるのなら、この「1年以上」とも思われている日々を、ただ「当たり前だった日常」を取り戻す期間として捉えるのではなく、新たな行動様式に沿った、新たな楽しみを見いだしたり、創造したりする時間に費やしても無駄ではない気がする。
サッカーの話で言えば、
「ゴール裏に大勢で集まり、応援歌を大声で叫び、肩を組み、ゴールが決まれば隣の人と抱き合う」
或いは
「日本中(世界中)どこであろうと、大好きなチームを追いかけ応援に馳せ参じる」
「応援するチームの練習見学に行き、憧れの選手たちと握手し、一緒に写真を撮る」
といったサッカーの楽しみ方、サッカーを楽しむ人たちの行動様式が、もうこの先に二度と得られない可能性もあり得るという事だ。
さらに言えば、サッカーというスポーツが持つそうした文化が「絶対に社会に必要」と言い切れなかったからこそ、このコロナ禍にあって社会から、最も早く「不要」の烙印を押されたと、捉えることも出来よう。
サッカーの生き抜く道を「創造」する
私の中で、コロナに苛まれるこの特別な期間は、新しいサッカー文化を創造していく、その礎となる時間にして行こうと考えるようになってきている。
もちろん私は専門的な医療や感染学の知識を持つ者ではなく、この先の新型コロナウイルスの展開について確信めいたことも何一つ言えない。
ただ、ひとつだけはっきりしているのは、この謎に包まれた風邪ウイルスによって、日本だけでなく世界中のサッカーがほぼ完全に失われたこと。そして、仮にこのコロナ禍が終息したとしても、いつなんどき、この様な感染症が全世界に蔓延する事態が、その先に訪れてもおかしくないということ。
それでもサッカーを愛し、サッカーが多くの人々の生活に豊かさを与えるものであると思いたいからこそ、「アフターコロナ」に向けた新たなサッカー文化の創造を、まさにコロナウイルスと共にある今、「withコロナ」の覚悟を以て考えていきたいのだ。
そしてこうした思いを抱く人が多ければ多いほど、サッカーの生き抜く道もその分だけ数多く見出されるはず。そして、より逞しくなった「サッカーの日常」がそこに生み出されるだろう。
私はwithコロナで参ります。