Jリーガー安彦考真のラストシーズン第1部『終わりを決めて見えてきたもの』

Jリーグ

関連リンク

 

Pocket
このエントリーをはてなブックマークに追加

J3クラブ Y.S.C.C.横浜で2年目のシーズンを迎えている安彦考真選手を形容する言葉はいくつもある。

「クラウドファンディングでJリーガーを目指した男」

「40歳でJリーガーになったオールドルーキー」

「年俸0円Jリーガー」

最近では、安彦選手が所属のY.S.C.C.横浜から月10円の報酬を受ける契約をしたことから

「年俸120円Jリーガー」

という呼ばれ方も。

それらはいずれも事実であり、安彦選手のこれまでの足跡を分かりやすく表わした言葉でもあると思う。

しかしながら、昨年の夏以来、安彦考真という「Jリーガー」と直接言葉を交わしてきたことで、先に挙げたような「形容詞」が、必ずしも彼の思いや行動を十分に表現出来ていないと感じることが増えていった。

そんな折、安彦考真選手が、2020シーズンをJリーガーとして最後のシーズンにすると、Twitter上で宣言した。

Jリーガーとしての安彦考真を表わす「形容詞」を見つけるのに残された時間はもう僅かしかない。

そんな思いを以て、チームがシーズンインした1月中旬に、安彦考真選手のインタビュー取材をすることにしたのだ。

Jリーガー安彦考真が、最後のシーズンと宣言した2020シーズンに向け、今どんなことを思い、何をしようとしているのか。

今回から4回に分け、そのインタビュー内容をお送りしていきたい。

2020を最後のシーズンに

毛利 昨年末、安彦選手がご自身のTwitter上で、2020シーズンを最後に引退すると、そう呟いておられましたが。

―そうですね、僕の中で2つあって、1つは自分の人生を自分で決めたいと、僕自身が決めたスタートであって、勿論Jリーガーになれたということについては、サポートがあったのは言うまでもないことですが、僕が自分で決めた人生を最後は自分でケツを拭きたいなと言うのもあったので、好きなことであれば終わりも、きれいに僕は終わりたいなと。

あともう1つは、Jリーガーに対する僕にとってのリスペクト。やっぱりこれ、スタートする時に色々な人に「お前みたいなもんがJリーガーになれるわけない」とか「年俸0円はJリーガーじゃない」とか沢山ありました。なので、僕の中でのJリーガーに対する最大限のリスペクト、その限界値も含めダラダラ続けるという事では無くて、ケツを決めた1年をどう評価してもらえるか。

そういう意味では僕の中でJリーガーとしての集大成と言うか、最後の評価の場所かなと、まあなれました、点も獲ってない、試合も出ていないのに、と言われながら去年は試合に出ました、でもまだ点は獲れていないのに、といった所で、例えば最後点を獲れた時に「やっぱアイツJリーガーだったね」と周囲が言うのか、それでも「1点しか獲ってねぇじゃねえか」と言うのか、それによっても僕の中での感じ方と言うか、言い方は悪いですけれど【実験】と言うか、そういうものに対する結論が出るんじゃないかなと。

それから、自分のキャリアという意味で、セカンドキャリアって言うことになりますけれど、大事なのは【本業は自分】であって、自分自身が生きていく上で職業をメインで考えたくないと言うのもあるので、僕は今サッカー選手をやっていますけれど、僕自身が生きる道として職業がサッカーなだけで、僕なりに新しいキャリアの作り方として、自分がどうしたいのか、自分がどこを目指したいのかって言うのを明確に表示していく良いタイミングかなと思ったので、それをちゃんと表現していく中に、来年の答えと言うか、そういうものをしっかり残していきたいなと。

最後って言うのをしっかり決めることで、みんなから「じゃあ次どうすんだ」と、0か100、白か黒って言うのじゃなく、白と黒の間にはグレーがあるだろうと、そこの過程をちゃんと見せられる様な状態にはしていきたいなと思っているので、まあキャリアって言うのが次の100年、日本サッカー界それから社会、教育と言ったものの100年後、【曾孫が喜ぶ社会】ってどんなのかなって想像した時に、今出来る最善のことをしていきたい、そういう1年にしていきたいと、これが僕が引退と言うか、選手生活の最後だと言い切った理由ですね。

4月で婆ちゃんが100歳になるから

毛利 最近安彦選手が発信されている言葉の中からは「100年後の社会に対して我々が出来ることは」というテーマが共通してあるように感じているのですが、「Jリーガー安彦考真」のその先のキャリアにおいて、このテーマに対して何か思われていることがあればお聞かせ頂けますか。

―僕が選手を終わりにする、あんまり文字面で「引退」という言葉は使わずに「ラストイヤー」、選手生活としての最後という感じにはしているんですけれど、「引退」って言うと世の中がイメージする印象としては「寂しさ」みたいなのがあると思うんですが、そういう風になるの僕は凄く嫌で、決して僕の人生の終わりではないし、どちらかと言うとそこからまた新しいものが始まると、だから僕は「ラストイヤー」という言葉を使うんですけれど。

まあそれを決めたのは、リングのコーナーに自分を追い込まないと、ありとあらゆる細胞を開花させることが出来ないんじゃないかと言うのが僕の中にはあって、プロを目指すときに身銭を全部捨ててしまったって言うのがあったからこそ出来たので、それと同じように、今年最後だと、1日1分1秒、1つのボールを蹴る瞬間、1つのパスに、どれだけお前は最後だという思いを込められるんだと。もう二度と戻って来ないじゃないですか、今日は。

その中で、ちょっと待てと、そういう風に思うのはサッカー選手だけでなく、多くの人がそうであるべきなんじゃないかと、明日がどうなるか分からないし、これだけ天変地異が起きている中で、結構我々は危機感を抱けていない。

うちは婆ちゃんが4月で100歳になるので、凄く考えさせられたんですよね、僕は婆ちゃん子で婆ちゃん大好きなんですけれど、婆ちゃんが生まれた100年前を考えたんですよね、そうすると1920年の日本て戦前ですけど、彼女の命があったからこそ、うちの母親がいて、僕がいると考えると、本当の意味で「受け継がれる」とはどういうことなのかと、やっぱり地球は借り物だと言われますけれど、僕らは先祖からの恩恵を受けていて、爺ちゃん婆ちゃんの代が戦時中も含めて「我が国の為」と必死に生きて、それを団塊の世代であるうちの親の代が引き継いで、必死になって血眼になって働いたわけですよね、そのブリッジの先に僕らがいさせてもらっているわけですけど、僕らは「なんもしてねえな」と。

100年後に「どんな日本サッカー界だろう」

それなりにモノで満たされた社会に生きているけれど、僕らも何か残さなくちゃいけないんじゃないかと、100年先に何を残せるんだろうと、と考えはじめたのがきっかけでもあって、自分を追い込めば追い込むほど、そういう事も考えるようになっていって、サッカーのプレー面で細胞を研ぎ澄まして集中力を高めていくぞと思う一方で、そういう発想になっていったって言うのがあって、次の100年って僕はどう考えたらいいのか、それは未来予想図なので誰にも分からないので、僕なりの【曾孫が喜ぶ社会】ってどんなものなんだと、「おじいちゃん、ありがとう」と言ってもらえる【100年後からのありがとう】の為に出来ること、そうすると「国立競技場」は負の象徴になると思うんですよ、オリンピックの為に造ったけど「これいらなくね?」って100年後に言われると思うんですよ(笑)

そしてそんなことがいくつもあるんじゃないかと。100年後を考えた時に、どんな社会になっていたらいいだろう、どんな学校だろう、どんな教育だろう、その時に【どんな日本サッカー界だろう】を考えたいんですよ。

そういう未来の為に僕が出来ることって言うのを、サッカーを通した方が色々な人に伝わるって言うのもありますが、そうでない方向を見ないとサッカーの「ムラ社会」だけでそれを知らしめても全く意味がないと思うので、スポーツが持っている力が本当に凄いのであれば、僕ら選手がそれを地でやらなくちゃいけない、そう思ったのが僕の中でスタートとしてあったんですね、今年で終わりってした瞬間に考えはじめて、リングのコーナーに自分を追い込んだことで、自分の前後も未来も考えられるようになったんです。

第2部に続く

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で