Y談のようにサッカー談義が出来れば…

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男3人集まれば…

洋の東西と問わず、男が3人集まれば「Y談」が始まると言われている。(異論は全力で受け止める)

「Y談」と書いても、若い世代の方にとっては聞き馴染みのない言葉であるかも知れないので、念のためそれが何を指すか触れておくが、「Y談」とは‟性に関する淫らな会話”つまり「下ネタ会話」を指すオッサン用語だ。

こうした会話が苦手な男性も勿論いるし、苦手どころか不快感をあらわにする男性だっているわけだが、少なくとも私の人生においては、そうした男性は少数派で、多くの野郎どもは「それ」が始まると、嬉々としてそこに加わろうとしてくる。

会話テーマのタブー

よく、親しくとも「政治」と「宗教」の話題はタブーだ(以前はそこに「プロ野球」も入っていた)と言われる。

私も幼き頃から、父にそのタブーを言い聞かされ、大人になっていくにつれ、それが意味するところ、何故それがいけないことなのかを理解出来るようになっていった。(今はそうした話題を「ただ」避ける風潮が決して良いとは思っていない)

互いに主張の譲歩をするのが難しい「政治信念」や「宗教観」を話題にすると、そこに妥協点を見いだすのはそもそも無意味だし、そうしているうちに、双方の意見主張が交錯し続け、結果的にそのまま軋轢を生じさせ人間関係に亀裂が入ってしまう。

最悪の場合、その相手が怨念の対象になってしまって、単に「あいつは気に食わない」だけで済まず、「あいつを潰してやる」と抗争の火ダネになってしまうこともあるだろう。

そうした状況を生み出さない為に、どんなに親しい人が相手であっても「政治・宗教」をその会話のテーマに選ばないことは、大人の嗜みであると捉える向きも大きい。

当たり障りの無いテーマとY談

しかし、「天気」や「芸能時事」や「クルマ」の話であれば、親しいどころかその日初めて会った人が相手でも、当たり障りなく会話が出来る鉄板のテーマだし、これらを話題に会話していても、大喧嘩が始まるようなことは無い。

A「明日はどうやら雨が降るようですね」

B「え?雨だって誰が決めた?気象庁か?気象庁の発表は絶対なのか?!」

仮にこうなるのが常だとすれば、その社会はマッドマックスの世界以上にささくれた場所になってしまう。

そんな戯言はさておき、

こうした当たり障りの無い会話のテーマ、これらが無駄な争いを生じさせないテーマではあるのは間違いないにしても、実は共通してついて回る課題があって、それが

「基本的にさほど面白くない」

という致命的問題なのだ。

それでも、その日初めて会った相手とか、たまたま飲み会で横に座ったそれほど親しくない同僚や上司が相手であれば、そこに面白さを求めてリスクを冒すより、多少面白くなくても「TOYOTAから出た新しいクルマ」や「薬物所持で捕まった芸能人」を話題にチョイスするのは賢明な判断と言えるだろう。

ただそんな大人の会話事情にあっても、会話タブーの原則「曲げられない信条」を要素を持ちながら、その日初めて会った人とであっても「当たり障りなく」とは相反する「かなり突っ込んだ」スタイルで、かつ「面白く」なりやすい会話テーマが唯一存在している。

それこそが「Y談」なのだ。

性的趣向に正誤はない

その多くは、テーブル上にある「何か」を「ナニか」に見立てたりして探りを入れる者が現れ、それに対する周囲の反応を見ながら、「よし行ける」と判断するやいなや、ダムが決壊するが如く一気に「Y談」の流れに溺れていくことになる。

その中でそれぞれが、自らの性的趣向を明らかにしたり、様々な「議論」を展開したりしていくのだが、「政治・宗教」といったテーマが、下手をすると血で血を洗う抗争に発展する可能性すら帯びているのに対し、Y談の末に殴り合いのケンカが始まることはほとんどない。

だからこそ「かなり突っ込んだ」自分自身の「曲げられない信条」を語り合いながらも、そこに多くの男性を惹き込むことが出来ているわけだが、そうなる最大の要因は

「性的趣向には正誤がない」

ことに起因しているように思う。

勿論中には、法令上問題のある性的趣向もあるわけで、それらについては社会通念上、或いは法令上の一線が存在するのは当たり前のことだが、それは何も「Y談」というテーマだけに特別に存在しているものではないので、今回の主張の範囲外と捉えて頂きたい。

Y談のようなサッカー談義を

と、こうして長々と男性による「Y談」について書いてきてしまったが、今回私が書きたかったのは、この後に続く話についてなのだ。

やや唐突であるが、その主旨はこれだ。

「Y談のようなサッカー談議を」

「サッカー談議」という言葉からは、その字面を見るだけでも「喧々諤々(けんけんがくがく)」というイメージが浮かんできてしまう。

確かに私自身も、サッカーについて話をしていてケンカに近い状況を生み出したこともあるし、特にTwitter上では頻繁に喰って掛かられたり、喰って掛かったりもしている。

ネット上であれば、それはそれで面白い場合もあるのだが、顔と顔を突き合わせて話をしている相手に対して、そうそう「怒り」のエネルギーばかり発していては身体も心ももたない。

それも大好きなサッカーがことの発端だとすれば、これほど残念な話はない。

ピッチ上のサッカーに正解はない

本来、サッカーはただ一つの正解を求めて戦うスポーツではない。

流行りの「戦術論界隈」では、得てして高名な評論家がオピニオンリーダーとして崇められたリする傾向も見られるが、それも実のところはおかしな現象だと私は感じている。

名画を見た100人が100通りの感情を抱くように、サッカーも本来はそうしたものであるはずだ。

そう思えると、自分の考え・主張と異なる考えに遭遇した時の気持ちもだいぶ変わってくるだろう。

「俺がこう思うのに、あいつはこう言っている。全然分かってない、あいつは浅すぎる」

から

「なるほど、私はこう思ったけど、彼はこう思うのか、全く気付かなかった点だけど、次からは少し意識して観よう」

と言った具合に。

この辺りは「Y談現場」をイメージしながら考えてみると、非常に理解がしやすい。

「俺さ、あの無料サイトで物凄いドストライク発見しちゃってさ、以来毎晩アクセスしちゃってるわ」

に対して

「は?なに言ってんだよ。あんなサイトよりこっちのサイトの方がメジャーだし、大体お前が見つけたドストライクって、ただのガリガリじゃん。死ねよ。」

と返している人はいない。

多くの場合は

「マジで?!お前の無料サイト情報量は本当に凄いな、ジャンルはややアブノーマルだけどさ、ホントありがたいわ。」

となるはずだ。

こうやって、互いの趣向(主義主張)をリスペクトしながら、その会話の交(あや)を楽しめれば、例えそのテーマがサッカーであっても、「喧々諤々」ではないサッカー談議が出来るのではないだろうか。

そして、こうした楽しい「Y談的」サッカー談議は、間違いなく日本のサッカー文化をさらに何歩も深めていくことに直結するように思う。

私は最近、それを意識的にし始め、今はもっぱら発信する側に徹している段階ではあるが、これがなかなか楽しい。

試合を見る目も変わって行くし、何といっても見た試合の印象がこれまで以上に強く頭に残っていく。

皆さんも自分が感じたサッカーを積極的に声に出してみることから始めてはどうだろうか。

ポイントは「正しいも間違いもない」だ。

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