ゼロックススーパーカップ
「手本に出来るような世界トップクラスのプレーを見に行こう」
こんな思いを以て、イニエスタのプレーを少しでも盗んでやろうとヴィッセル神戸の試合を観に行っても、それを叶えるのはなかなか難儀であるように思う。
そう思う理由は、イニエスタが備え持っている技術、戦術眼といったモノのレベルがあまりに高く、到底それを真似するのが難しいということではない。と言うよりもむしろ、それらについては、日本の若い選手の中にも、限りなくそれに近い能力を感じさせる選手は少なくないとすら思っている。
では何故、彼のプレーを「簡単には真似出来ない」と思ったのか。
それは、その理由を今まさに発見してしまった様に感じているからなのだ。
2020シーズンのJリーグ開幕を2週後に控え、今年もそのシーズン幕開けを華々しく知らしめる大会「ゼロックススーパーカップ」が、昨季のJ1王者、横浜Fマリノスと、新しい国立競技場で天皇杯を手にしたばかりのヴィッセル神戸という魅力的なカードで行われた。
この試合は半ば華試合で、スタジアム全体の雰囲気は、通常のリーグ戦やタイトル戦のような緊張感に包まれたものでは決して無かったが、ピッチ上で戦う選手たちは、見ているこちらが少し心配してしまうほどに、全く出し惜しみすることなく、集まった50,000人の観客を十分に満足させるだけの試合を見せてくれたと思う。
その中で、私に「この試合を見に来て良かった」と最も思わせてくれた選手は、昨季リーグMVPの横浜Fマリノス仲川輝人でも、売り出し中のヴィッセル神戸FW古橋享梧でもなく、やはりと言うか、結局と言うか、イニエスタだったのだ。
初めて生で見るイニエスタ
初めに断っておくが、前出の仲川輝人にしても古橋享梧にしても、この試合におけるプレーはなかなかに素晴らしいものであった。
特に仲川輝人は、スペースを与えられた後半は特に、ヴィッセル神戸にとって最大の脅威であり続けた。
そのスピード、クイックネス、判断の良さを武器に、彼にボールが渡ると何かが起こるのではないかというワクワクを多くの観客は感じていたと思うし、きっと今季も仲川輝人に対戦相手が苦労させられるであろう予感もすることが出来た。
それでも私に「この試合を見に来て良かった」と最も思わせた選手は、あのバルセロナの英雄、イニエスタだったのだ。
告白をするが、実は私にとってイニエスタのプレーを生で見るのは、今回の試合が初めてだった。
彼のプレーは、全Jリーガーの中にあって最も露出機会が多いし、そもそもこうして今、Jリーグでプレーする以前のキャリアにおいては、常に世界トップクラスの舞台で活躍してきたわけで、彼のプレー自体を映像を通しては何度となく見てきてはいるものの、目の前のピッチ上にイニエスタがいる状況は私にとって初めてだったのだ。
そして今回イニエスタのプレーを直接この目で見たことで、これまでにサッカー選手に対してはほとんど感じたことのない、特筆すべき「性質」をそこに見つけ出すことが出来たように感じている。
「気」がほとんど感じられない
直接目にしたイニエスタのプレーから感じた、彼の持つ特筆すべき「性質」とは、ズバリ
『イニエスタからは「気」がほとんど感じられない』
というものだ。
これだけではほとんど誤解を招いているだけになりそうなので、もう少し補足すると
『イニエスタは対峙する相手に感知されそうな予備動作が限りなく小さい』
『イニエスタの佇まいからは、その考えや狙いを読み取るのがほとんど不可能』
といった所だろうか。
特にこの印象がはっきりとして現れるのは、イニエスタがボールを持った状況で、至近距離にそれを邪魔しよう、或いは奪おうとしている相手選手がいる場面で、大抵の場合、イニエスタは非常に「地味」なプレーで、相手にとって最も運ばれたくなかった位置に、ボールを「完璧」に展開させてしまう。
メッシやC・ロナウドが派手にドリブル突破し、サラやアグエロがシュートレンジで見事に相手を交わしゴールを陥れる姿の全てが「オーラ」と強い「気」に満ちた、どこを切り取っても画になる豪勢な芸術作品であるかのような印象を突き付けてくるのに対して、イニエスタがバイタルエリアで何人ものDFをごぼう抜きにしても、マークする相手の股抜きをして絶妙なスルーパスを繰り出そうとも、私はそこにメッシやアグエロのような「華やかさ」を感じたことも無かったし、C・ロナウドのような「強さ」、サラのような「スピード感」も感じたことが無かったが、その原因がこうした世界的スーパースターが総じて備え持っている「オーラ」「気」をイニエスタが持っていないことにあるのではないか。

この様に書くと、一聞スピリチュアルな印象を持たれてしまうかも知れないが、自分のプレーを邪魔しようとする相手選手に、保持しているボールをどう展開しようとイメージしているのか、それを読まれないように、視線の向きや、身体の向き、動作で欺くのがいわゆる「フェイク」「フェイント」であるのだとして、イニエスタにはそうした「欺き」を積極的にしなくとも、それを相手に予知させるだけの情報をそもそも与えていない、つまりイニエスタが「気」をほとんど発していないからこそ、彼には派手な「フェイント」も不要だし、なんだかよく分からないがバイタルエリアで相手選手をごぼう抜きにしてしまうドリブルも出来てしまうのではと、ゼロックス杯のピッチにいるイニエスタを見つめながら私は感じていたのだ。
もう少し補足すると、この試合でイニエスタの対極にいたのは、ヴィッセル神戸の左サイドで躍動した酒井高徳で、彼のプレーは「気」に溢れている。今回の文脈に沿って言えば、彼のプレーには「気」が溢れているので、予備動作も非常に大きい、それでも並外れた推進力があるので、度々相手にとっての脅威となるのだが、2人が同じピッチ上でプレーしていたことで、その対比が非常にしやすかった。
「気」が感じられないイニエスタは盗めない
そして、今回私が冒頭に書いた言葉
「手本に出来るような世界トップクラスのプレーを見に行こう」
こんな思いを以て、イニエスタのプレーを少しでも盗んでやろうとヴィッセル神戸の試合を観に行っても、それを叶えるのはなかなか難儀であるように思う。
最後にこの本意について述べていくが、恐らくイニエスタは意識して「気」や「オーラ」を消していはいないように私には感じられる。
つまりあの佇まいは、彼が持って生まれた人間としての1つの特性であって、それが発揮されるのは何もサッカーをしている時だけではないように思えるのだ。
集団の中に居ても何故か必ず目についてしまう人、サッカー選手にはきっとそういうタイプの人が世間一般と比較して、かなり高確率で存在しているように思うが、イニエスタがそうしたタイプでないという主張に対しては、比較的共感をして頂ける方も多いのではないか。
イニエスタが意識してそうしている訳ではないし、そうであるからこそ彼は世界的サッカー選手にまで昇りつめられたのかも知れない。
「イニエスタのプレーを少しでも盗もうと思っても叶えるのは難しい」
イニエスタの蹴るボールの質、様々な局面における判断やポジショニング、そしてあのドリブル突破。
こうしたものが高いレベルで発揮されるのには、その大前提として彼が相手選手に「気」を感じ取らせていないという要素が常にセットされている。
であれば、それを盗もう、真似しようとしても、難しい。
これが冒頭に書いた言葉の本意だ。
ただし、盗んだり真似を出来なくとも、「気」を感じさせないイニエスタを「感じる」ことは出来るかも知れない。
少なくとも私は、今回初めてイニエスタを90分間見つめながら、これまでに感じたことのないサッカー選手の佇まいを感じることが出来た。