JFL昇格とは何なのか?「自信」と「矛盾」そして「錯覚」と「適正」

JFL

関連リンク

 

Pocket
このエントリーをはてなブックマークに追加

J-ヴィレッジで感じた「自信」と「矛盾」

間違いなくあの試合は「快勝」だった。

昨年の11月に行われた‟JFL昇格チーム決定戦”地域サッカーチャンピオンズリーグ決勝ラウンド最終日、高知ユナイテッドがおこしやす京都を3-1で下したあの試合だ。

その約2週間前に行われた1次ラウンド最終日において「完敗」した相手に対し、高知ユナイテッドは見事な戦いを見せ、それを退けた。

結果として、この試合に勝利した高知ユナイテッドがJFL昇格の権利を獲得、敗れたおこしやす京都は今回も地域リーグから脱出することが叶わなかった。

高知ユナイテッドの大谷武文監督は、JFL昇格を決めた直後のインタビューで

『本当はあまり見せないんですけど、とにかくウチの場合は練習を見にきてください』

と話した。そしてこの言葉から、彼が自分のチーム、そして自らの指導力に自信を持っていることが十分過ぎるほど伝わってきた。

それにしても「昇格」とは一体何なのだろう。

あの時、冷たい雨が降り続くJ-ヴィレッジスタジアムには、昇格という目標を果たした選手・チームスタッフ・応援団の笑顔が確かに溢れていたのに、その目標であったJFLに挑む最初の段階で、高知ユナイテッドが資金面で難局に立っている実情が露になった。

1月9日、高知新聞に掲載された記事を読んだ時点で、そこに触れられているクラブの難局は、正直に言えば決して驚くようなものでは無かったが、それによって高知ユナイテッドを見事地域CLで勝たせることに成功した指揮官、大谷武文監督との契約更改が出来なかったという「結論」が現れたことで、その難局が生み出した「矛盾」を私は感じざるを得ない。

四半世紀に渡る「錯覚」

改めて言う

「昇格」とは一体何なのだろう。

Jリーグが誕生したことによって、日本スポーツ界にはさほど馴染みの無かった「昇格」という概念がサッカー界に登場した。

その初まりは、Jリーグ創設時のオリジナル10にこぼれた(或いは自らその判断をした)クラブが、Jリーグの想定を遥かに超える成功に乗じ、波に乗り遅れることは許されないとばかりに、我先にと続々参入しようとする流れの発生だった。(ジュビロ磐田、柏レイソル、セレッソ大阪を筆頭に、日本サッカーリーグ時代の強豪実業団クラブが中心)

その流れによって現行のJ1リーグ「枠」である18クラブが埋まると、次はその2ndディビジョンとしてJ2リーグが発足、J2リーグ参入クラブが12クラブとなった2004シーズンからは「昇格」に加え「降格」という概念も登場する。(ただし、Jリーグの最下ディビジョンからJFLへの降格については、2012シーズンにJ2からJFLへ降格したFC町田ゼルビアの1例のみで、現在もJ3からJFLへの降格はシステム上存在しない)

こうしてJリーグの軌跡を辿ってみると、クラブやチームが力を弱め、或いは相対的に力が弱まった際に強いられる「降格」という結果は、たかだか16年程度の歴史(と言ってもJリーグ内での昇降格だが)しか持っていないことが分かる。

そうした実情もあり、日本サッカー界においてJリーグとは「昇格する場所」として存在してきた側面が否めない。

勿論、その陰に隠れ、JFLや地域リーグ、またそれらを下支えする都道府県リーグにおいては、Jリーグがスタートする以前からずっと「昇降格」が常に身近にあった。

ただ、その上層部分が半ば「片道切符」状態にあった為に、本来、成熟したリーグ構造であれば存在する、昇格したクラブと同じ数の降格クラブが存在しておらず、日本サッカー界においては現在に至る長きに渡って、明確に「昇格>降格」というその絶対数の差が存在している。

こうした背景が続いてきたことで、サッカー界には「昇格」のみが存在するかのような錯覚を覚えさせ、これが「昇格」と「降格」が常に対であるという当たり前の事実を忘れさせ、「昇降格」が何を意味するのかについてまでも、正しく捉えられない風土を育んでしまったように思う。

その本質は「適正」

「昇降格」が持つ本質とは「適正」である。

チーム力も含めたクラブの力。これらが拮抗するクラブ同士のリーグを作っていくことを目的に、その「適正」をリーグ戦績によって1年に1度「判定」する作業が「昇降格制度」なのだ。

ただし、この場合の判定基準の前提はあくまでも「相対評価」であるので、前の年に昇格したクラブと今年昇格したクラブとの間に、明らかなクラブ力の差が存在してしまうことは往々にしてある。

それでも、ほとんど全世界でこうした1年に1度のリーグ昇降格制度が導入されていることを鑑みれば、これが現状では最も合理的な「判定」の仕方であるのだろう。

行きつく「場所」

ただ、今回の高知ユナイテッドで起きているような「矛盾」

つまり、誰もが昇格を願い、それが達成出来たのにも関わらず、そこで発揮しようとした力、今回の場合は大谷武文監督の指導手腕がそれにあたるが、これを捨てざるを得ない状況に陥ってしまうという事態について考えた時に、その要因の大きくはクラブ側の力不足に拠る所が大きいのは間違いないことだが、そうさせてしまっている環境的要因についても、しっかり目を向けていく必要があるだろう。

何故なら、今回の高知ユナイテッドの例を、決して対岸の火事とは思っていない地域リーグクラブが、いくつもあるだろうことが容易に想像出来るからだ。

いやむしろ、現在JFLに所属しているクラブの中にすら、いつギブアップしてもおかしくない様な経営状況にあるクラブがいくつも存在していると考えた方が自然だろう。

日本サッカー協会が作ったルールに則り、然るべき大会で然るべき結果を出し「JFL昇格」という「判定」をされたクラブが、ステップアップした先のリーグ戦がスタートすらしていない時点で、ピッチにおける核だった指揮官を雇うことが出来ないという事態に追い込まれているのだとすれば、それはJFLというリーグ自体の在り方にも疑問を呈するべきではないか。

全国リーグ開催、天然芝ピッチ有料入場運営可能な試合会場の確保、指導者ライセンスの縛り、etc.

こうしたリーグの在り方には果たして未来が存在しているのか。

昨年来沸き起こっているJFLクラブによる諸問題を目にするにつけ、私にはこれらがクラブ側の悲鳴にも感じられている。

奈良クラブの観客動員数水増しについても、東京武蔵野シティの動員作戦についても、今回、高知ユナイテッドが明らかにした茨の道についても、JFLというリーグで戦っていくことが、いかに難しく、いかに希望を見いだすのが難しい場所であるのか、それを如実に表していると言えるのではないか。

「昇降格」の持つ本質、つまり「適正」を判定するという側面を重要視した時、当然ながら「適正判定」を受けた後に行くつく「場所」は、そのクラブにとってより居心地の良い場所であるべきだ。

そうでなければ、多くのクラブが行き場を失い、生きる意味を失ってしまうだろう。

奈良クラブの頭を叩き、高知ユナイテッドを責めたてたとしても、こうしたクラブが生み出される状況が変わるとは思えない。

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で