日本語の‟悪態”
劇作家の鴻上尚史さんが以前コラムでこんなことを書かれていました。
『日本語の悪態には人の容姿を揶揄する言葉が多い』
確か、西欧のどこかの国の言葉と比較しての話し向きだったと記憶していますが、確かに日本語で「悪態」を思い浮かべると人の容姿に関する言葉は多いように思います。
ハゲ、デブ、ブス、チビ、などは案外と軽々しく日常生活に出現してくる言葉ですし、これは容姿ではありませんが「ババァ」とか「ジジィ」なんていう、相手の変えようのない特性を指した言葉が悪口として使われるケースも少なくない。
鴻上さんのそのコラムの中では『日本では相手の「行動」や「信条」に対して悪態をつくというより、変えることが出来ない「特性」に対して悪態が言い放たれる傾向があるが、西欧ではそうした傾向があまり見られない』といった主旨のことが書かれていましたが、それが実際に正確な情報であるか否かは置いておいて、確かに私自身も無意識のうちに相手の「特性」を揶揄するような悪態をついてしまうことが少なからずあるのです。
まあそもそも「悪態」ですから、相手のことが憎かったり、恨めしかったりする状況で発する言葉であるわけで、そこに何らかのモラルみたいなものを意識する余裕すらないことも多いでしょうし、出来る限り相手にダメージを与えたいという狙いもありますから、自分が太っているのを気にしている人に対し「このデブ!」と言い放つことで最大の破壊力を見込めるのであれば、我々はその武器を手に取り相手をやっつけようともしてしまう。
つまり私がここで言いたいのは、人間とは得てしてそういう気質を持っているという自戒にも似た思いであって、鴻上さんのコラムの中では「西欧ではそういう傾向があまり見られない」としていましたが、実際は西欧人であってもそういう気質がゼロであるはずもなく、ただ、彼らの場合は明らかに容姿の異なる人間同士が混在して社会形成されていることで、単に容姿を揶揄する悪態をついたところで、それが日本社会ほど効果的な攻撃手段とはなり得ていないというだけの話かなと感じております。
と、何故今回こんな話から始めさせて頂いたかと言えば、それは最近Jリーグ界隈でトピックスとなっていた「人種差別」について、私自身考えを掘り下げてみたことに端を発しているのです。
Jリーグと人種差別
あるJクラブサポーターを名乗るツイッターアカウントが発した「人種差別」とも取れるようなつぶやき。
その具体的内容については、今回私が述べたい本論とは外れる部分ですので、紹介は避けますが(と申しますか、紹介しない方がいいと思いますが)今回のケースについては、その対象となったJリーガー本人が、そのツイートに対する考えをツイッター上で意見発信し、そうした状況を受け、当該Jクラブ(人種差別ツイートをした「サポーター」が応援しているとされるクラブ)が「人種差別は絶対に許さない」と公式に声明文を出したことから、Jリーグの世界だけに留まらず、一般のニューストピックスとしてもこの件が扱われるまでに発展してしまったので、恐らくはサッカーファンやJリーグファンでない人たちの知るところにまでなっているはずですが、そんな最中に多くのサッカーファンが見せていた反応も非常に興味深く私は観察しておりました。
そのほとんどはこの「人種差別ツイート」を猛烈に批難するもので「こんな奴はサポーターではない」と言った意見から「当該クラブに何らかのペナルティを与えるべき」としたものまで、その熱の置き所には多少の差異は見られましたが、概ね「人種差別=悪」とした前提に立った言葉で埋め尽くされていたように思います。
ただ、私が気になったのは「人種差別=悪」はいいけれど、何故人種差別が悪であるのか、そこについて各々がしっかりと認識しているのだろうかという事でした。
「人種差別=悪」が記号化してしまっていて、それを犯した人間が現れた時に、それを猛烈な勢いで批難する、言わば「ルールなんだから守るべき」と、ことの本質を深く考えずに、「人種差別=悪=ルール」と言う思考で停止してはいないかと、そう感じてしまったのです。
我々はそもそも人種差別をしてしまいやすい
冒頭に鴻上尚史さんのコラムについて書きましたが、それがここに繋がってきます。
つまり、「我々はそもそも人種差別をしてしまいやすい」という気質に気づくこと、それを常に自戒することこそが、最も重要ではなかったか、と言うことです。
Jリーガーへの人種差別があった時には烈火のごとく怒り狂っていた人が、見ず知らずの韓国人に対し差別的発言をしていることがあるかも知れない。
それを私は批難する気はありません。
何故なら、人は得てして人種差別をしてしまうもので、それは私自身もそうであると自覚しているからです。
ただ、それを野放しにしていれば、人は必ず争いを始め、果ては互いに傷つけあう末路しか待っていない。
「人種差別=悪」とした考え方は、そうした人間の特質を踏まえた上で、近代社会が発明したひとつのルールであると、私は思うのです。
そもそもあの「人種差別ツイート」をした者は愉快犯だと私は思っています。
だから、ツイッター上でどんなに猛烈な批難を浴びようと、ツイッターアカウントが凍結しようと、当該クラブが公式に声明を出そうと、それによってダメージを受けることなど全くなく、必ずどこかでほくそ笑んでいるかも知れません。
つまり今回のケースについては、当該アカウントを批難すればするほど相手の思惑通りになっている可能性すらある。
人種差別主義者を糾弾する姿勢は必要です。
しかしそれと同じくらいに必要なのは、自分も人種差別主義者になる素養を持っているのだという認識と、それに対する自戒の気持ちであるように私は思います。