闘将 流経大中野雄二監督の提言 第5回「大学チームの社会人リーグ参戦」

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闘将 流経大中野雄二監督の提言 第5回「大学チームの社会人リーグ参戦」

流通経済大サッカー部 中野雄二監督(2019年7月 RKUフットボールフィールドにて)

大学チーム受け入れはNOだった

『1種の中でも社会人連盟と大学連盟とプロと、3つ分かれていますが、何故かこの社会人連盟と大学連盟っていうのはどの都道府県でも何かしっくりしない時代がずっとあったんですよ。

で社会人連盟の人に聞くと昔は一緒にやっていたらしいんですけど「大学生は適当だ」と。

1種の括りの中でも社会人連盟は社会人のやる場所だ、大学連盟が大学生のやる場所だと、そういう定義になっていったようです。』

ー社会人と大学生が一緒にやるようになってきたのは年代的にはいつ頃のことなんですか?

『90年代後半に僕がプリマハムで社会人チームを指揮した時は、まだ大学チームというのは社会人連盟の中にほとんどいなかったんですよ。唯一その時に関西リーグに※体大蹴鞠団というチームがあって、祖母井さんがやられていたチームですが、この大阪体育大の2軍チームが結構活躍していましたがレアなケースだったんです。

僕も流経大に来ることになって、流経大ドラゴンズなんかを社会人リーグに参加させようとした時に、プリマハムで社会人の人たちとは向かい合っていたから「中野さんのところのチームなら問題ない」と、どちらかと言えば人間関係があったから大学チームで社会人リーグに入り込めたんですよ。「入り込めた」っていう言葉はあんまり良くないかも知れませんが、それまでは大学チームが社会人リーグに参加することについて社会人連盟側は徹底してNOだったんです。社会人の大会に大学チームが出てくるっていうのはNOだったんです。

それまではどこの製造会社も人手が欲しかったから、結構福利厚生でサッカーチームも持っていて、チーム数も多かったわけですが、そんな中、過去に社会人リーグに参加した大学チームが棄権したり、学生が社会人的な自覚に欠けるようなことが多かったようで、だから社会人連盟の古い方ほど「なんで大学チームを受け入れるんだ」という保守的な考え方をされる方も多かったと思うんです。

ところが、社会人連盟側も福利厚生でスポーツをする企業がどんどん減ってきて、新入社員もあまり採用しなくなっていけば、既存の選手たちはどんどん年を取っていくわけで、いずれサッカーをやめていけば企業サッカー部の人数も減りますよね。するとチーム登録も抹消しますから、連盟に登録するチーム数が減っていく中で大学チームが参戦するっていうのは、ある意味でタイミング的に良かったんですよ。』

ー近年、各地域リーグに多くの大学チームが参戦している現象は、社会人連盟側にとってもチーム数減少という課題があった中で歓迎すべきものであったということなんでしょうね。

『今大学サッカー界は大きく二分化されてきていて、人気のある大学サッカー部は100人以上の集団になっていますから、もちろん大学サッカーにも2軍の公式戦(Iリーグ)もやっていますけど、やっぱり社会人連盟登録で社会人の大会でやれるっていうのも、ひとつのモチベーションになっているのは事実です。だからうちの流経大ドラゴンズも地域決勝(現 地域サッカーチャンピオンズリーグ)に勝ってJFLに昇格しましたし、阪南大なんかも結構全社(全国社会人サッカー選手権)に出てきたり、関東リーグを見ても桐蔭横浜大、東京国際大、早稲田大、流経大と4つも大学チームがいますよね、でもそこについても、9つの地域リーグを見ても、一度見直さなくちゃいけない時期に来ているようにも思います。』

ー中野監督の思われている「見直さなくちゃいけない」とはどんなものなのでしょう。

『大学サッカーを見ても北海道から九州まで9つの地域に分かれてリーグ戦が行われていますけど、その中でも関東大学リーグは充実しているじゃないですか。すると何も北海道まで行って交通費も掛かる時間も掛かる、それで試合をやったら5-0の結果。これが関東の大学にとって何の意味があるのと、関東は関東が強いんだからそれでいいんじゃないかと、大学連盟もそういう考え方をするんです。

でも将来のことを考えたら、大学サッカーをいかにレベルを全体として上げるか、それを考えたら「関東が充実しているからそれでいいよ」ではなくて、北海道であっても東北であっても北信越であっても九州であっても、どうやったらそこで頑張っている人たちのレベルを上げて行くことが出来るかを考えていく必要がありますよね。』

 

天皇杯と強豪大学チーム

ーつまり、そうした学生チームが地域の社会人リーグに参戦することで、学生チームだけでなく社会人チーム側も含めた競争が生まれ全体のレベルが上がって行くということでしょうか。

『その頂点にあるのが天皇杯だと思うんですよ。

僕は天皇杯実施委員でもあるんですが、現在は47FA(47都道府県の各サッカー協会)が1つの代表を決めるという形になっていますが、東京なんかはあれだけ強い大学チームがいっぱいあって、それでも東京都代表は1枠ですよ。これ、東京の代表になるのは大変です。でも天皇杯で本当にジャイアントキリングを起こせるのは大学チームなんです。

東京にどれだけの大学チームがいるのって考えたら、東京都の枠を5とか10にして大学チームがいっぱい出られるようにしたら、天皇杯は絶対に盛り上がるんですよ。でもそれを言うと、現行のやり方で47FAにお金が落ちる仕組みになっていて、それを変えられてしまうのが嫌なんです。でもそういうこととサッカー界の改革っていうのをどう捉えていくかって考えた時、やはり別に考えるべきだと思うんですけど、こういう話を突っ込んでいくと、嫌がる人も多いんです。今のやり方、現状で満足している人は多いから、やっぱりそこを変えられるのは嫌なんですよ。

でも僕は現場にずっといるから、だって明治だって強いし法政だって強いし、国士舘だって早稲田だって駒澤だって強いんだから、そのチームが天皇杯に出た方が絶対に面白いですよ。Jクラブの側も絶対に大学チームとやる方が嫌なんですよ。』

ー大学サッカー側で指導者をされている方々の中にも、中野監督と同じ考えをされている方がおられますか。

『みんな天皇杯に出たがっていますよ。

大学サッカーは昔あまり天皇杯に対して本気ではなかったですけど、今はみんな出たがっています。

社会人チームの場合は「プロとやれればそれで満足」というレベルかも知れませんが、大学チームの場合は選手も22歳以下で、この中からプロへ行く選手も出てくるわけです。って言うことは、今JFAがユース年代の上、21歳以下の年代にある選手の強化をどうすべきかと、そういうテーマを持っているわけですが、これとも合致することなんです。来年プロ選手としてプレーする選手が、大学チームでアマチュア選手として浦和レッズと天皇杯で戦って、まともに出来なかったら「お前、プロなんかで通用するわけないだろ」と。

アマチュアとプロの違いは、それが職業になっているか、お金が貰えるか貰えないかだけであって、アマチュアだから弱いっていう定義は僕の中には無いんです。アマチュアだってやることをやれば、プロよりも強いチーム、素晴らしい選手が生まれて当たり前だと思いますが、何となくプロの方が強いってみんな思ってしまっていますよね。

でも大学チームがいつか天皇杯で決勝戦まで行ったとしてもおかしくないんじゃないかなと思います。大昔は大学チームが優勝していた時代もありましたが、近年プロ化してからは外国人選手がいたりして、クオリティが違い過ぎるから現実的には難しいでしょうが、5年に1度くらい筑波大が勝ち上がったとか、流経大がベスト4に残ったよって言うようなことが起きたら、これはこれで日本サッカー界が大きく変わる可能性もありますし、とにかく「カッコいいじゃないか」と。

大学チームがベスト4に残ったら、みんなJ1やJ2のチームから欲しい欲しいって、こんな輝けることないだろと、僕これは本気で思っているんですよ。

それが毎年は無理だとしても、5年に1度とか10年に1度なら、そういう大学が明治であるのか筑波であるのか、いずれにも可能性はありますし、だからこそ僕は天皇杯に大学チームを沢山出した方がいいと考えているんです。』

優秀な大学生選手に機会を作るため

ーサッカー界の中でもその立場立場で考えがあるけれど、得てしてそうした考えは保守的になってしまいがちで、サッカー界をより活性化していこうという中野監督の主張されているようなこと、サッカー界の将来を改革していく為には直ぐにでも取り組んだ方がいいようなアイディアに対しては、それがしばしば障壁となってしまう側面もあるのでしょうね。

『47FAの1代表を大切にするのであれば、それはそれで残せばいいんです。大学連盟枠でもう10チーム出せるんであれば、例えば茨城県の予選で筑波と流経大があたって筑波が勝ちましたと、でも大学連盟の枠で流経大が出られるとか、こういう形であっても大学チームを沢山出場させた方が絶対に面白いんですよ。

現実的に考えても、例えばアンダー世代の日本代表にJFLチームの選手が選出されることはなくても、大学チームからは何人も選ばれているわけです。トゥーロン国際を見ても大学生選手が主力で出ていましたし、コパアメリカに参加したA代表に上田綺世(法政大)が選ばれたわけです。こうした大学生アマチュア選手が、自分の所属チームでより高いレベルの相手と天皇杯のような大きな大会で対戦する機会を持つことはとても大事なことなんです。

別に今も天皇杯の本戦はトーナメント表でピッタリはまっているわけではありませんよね、トーナメント表っていうのは32、64、128ってこれがピッタリはまっている状態ですよ、だから今だってデコボコなんです。だったら、1回戦シードにしているチーム(J1、J2)が平等になるところまでは出場チーム数を増やしたって、どうせそこで潰しあいをするんだから、潰しあいをやらせればいいですよね。

試合数が増えることで運営経費が大きくはなりますが、試合日程については現行でも社会人リーグや大学リーグは天皇杯1回戦のところに試合は組めないんです。だからスケジュール的には出場チーム数を増やしても混乱は起きませんよ。』

第6回へ続く

※体大蹴鞠団

大阪体育大サッカー部2軍チームを指揮することとなった祖母井秀隆氏(現VONDS市原社長)が「学生選手を社会人の地域リーグで競わせよう」と、当時、大阪府リーグに参戦していた大体大OBによる北摂蹴鞠団を実質的に大体大2軍チームへと変革させ、1986年に関西サッカーリーグに昇格。のちに大体大がチームの運営から引き、佐川急便大阪支社管轄の佐川急便SC(1999年に佐川急便大阪SCに改称)として再編された。

社会人リーグに参戦する大学チームの先駆けとなったチーム。

 

【中野雄二(なかのゆうじ)】

1962年東京都出身。

高校1年時、3年時に古河一高で全国高校サッカー選手権大会優勝。(3年時は主将)

法政大では2年時に総理大臣杯優勝。(4年時は主将)

大学卒業後、1985年より水戸短大附属高(現水戸啓明高)に教諭として赴任。サッカー部監督も務め、弱小チームだった同校サッカー部を5年後には県準優勝にまで導く。

1991年、プリマハムに社員として勤める傍ら、プリマハム土浦FCの前身プリマハムアセノFCのコーチとなり、チームがプリマハムの単独出資となった1992年以降は監督となる。

同年茨城県社会人サッカーリーグで優勝、1994年に関東サッカーリーグ昇格、1996年に全国地域サッカーリーグ決勝大会(地決)で準優勝し、チームはJFL昇格を果たす。

1996年シーズンが終わると、プリマハムがプリマハム土浦FCの運営から撤退。当時茨城県リーグに所属していた水戸FCと統合する形で1997年に誕生した水戸ホーリーホックで監督と常務取締役を担うも、チームがJFLで最下位となり1シーズンで辞任。

1998年にかねてより要請のあった流通経済大サッカー部監督に就任。以来大学サッカー界を牽引する指導者として、数多くのサッカーマンを世に送り出している。

流通経済大社会学部教授、全日本大学サッカー連盟副理事長、関東大学サッカー連盟副理事長

 

闘将 流経大中野雄二監督の提言 第1回「大学サッカーと高校サッカー」

闘将 流経大中野雄二監督の提言 第2回「水戸ホーリーホック時代と反省」

闘将 流経大中野雄二監督の提言 第3回「プロサッカーと社会人サッカー」

闘将 流経大中野雄二監督の提言 第4回「Jリーグ拡大路線と選手へのしわ寄せ」

闘将 流経大中野雄二監督の提言 第6回「練習試合は練習試合でしかない」

闘将 流経大中野雄二監督の提言 最終回「JFLとJ3と大学サッカーと新しい枠組み」

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