闘将 流経大中野雄二監督の提言 第3回「プロサッカーと社会人サッカー」

流通経済大サッカー部 中野雄二監督(2019年7月 RKUフットボールフィールドにて)
Jの地域密着理念は素晴らしいし聞こえもいいが
『サッカーチームの会社でも一企業なんですよ。だから一企業として捉えた時に、職場として正規社員を雇うんであれば、こういう条件が必要でしょ、福利厚生が必要でしょって考えるじゃないですか。でも、J2の一部、J3クラブには酷い状況があって、これを同じサッカー界で存在しているのを認めちゃうんじゃなくて、改善していかないといけないんじゃないかと、そう思うわけです。』
ー中野監督と同じような考え方をされる方も中野監督の周辺にはおられますよね?
『いますよ。でも、そういう議論をすることが出来て、何かを決めていく力を持っている人はJリーグの内側にいる理事であったりするわけですが、そういうJリーグ側の人は「将来はもっと良くなっていく可能性もある。今は目を瞑って成長を促さないと底辺が広がっていかない」と、そんな考え方をするんです。』
ー日本社会の少子化がどんどん進み、経済も右肩下がりなのに、どうして地方都市に存在しているケースも多いJ3クラブだけが、右肩上がりで成長曲線を描く可能性があるんだと、そうも思えてくるのですが。
『地域密着という理念は素晴らしいし凄く聞こえもいいんですけど、地域密着って言って結局は行政のお金をあてにして、結構そこの税金を使ってきた背景があるわけですが、今その税収がないんですよ。だから地方財政に頼るやり方は無くす方向で考えていかないと、この先も厳しいのは分かっているのに、そこはあんまり言わないですよね。
水戸ホーリーホックだって、あの戦力、あの予算で、今シーズンJ2の上の方にいるって素晴らしいと思いますよ。
長谷部監督がよく頑張っているんでしょうけど、でも水戸市が本当にJ1クラブを求めているのかと言えばそんなことはないし、やっぱりその都市に合ったJクラブ像っていうのがあって、例えば茨城県で言ったら、鹿島アントラーズがある以上、そこに水戸ホーリーホックが肩を並べるようになるとは考えずらいんですよ。でもこれが神奈川県だったら、マリノスがありますフロンターレがありますって言っても、全体の人口や経済力で言ったらJ1クラブが2つあってもやりくり出来る力はあるんです。』
誰もがプロチームになろうとしなくてもいい
ー神奈川県であっても、J1が2つ、J2が2つあって、でもこれがギリギリで、そこにJ3がさらに2つとなるとアウトになってしまっていて、神奈川でさえそうなんだから、茨城県で水戸ホーリーホックが何としてもJ1に上がらなくてはいけないと考えなくてもいいじゃないかということでしょうか。
『誰もがプロチームになることを求めなければいいと思うんですよ。別にプロチームじゃなくても、選手も働きながら安定収入があって、サッカーもJFLくらいまでは出来るんだと、そういうチームの仕組みを作る方が、返ってそこで幸福感を持って、ある年齢までサッカーを続けることが出来たら、プロチームを経営するよりも良いんじゃないかとも思っているんです。
今年の春に(蹴AKE11の)関東サッカーリーグ特番にも参加しましたけど、社会人サッカーって本当に大切なんですよ。
昔は一部上場のトップクラスの大企業が、みんな日本サッカーリーグに実業団として参加していたんです。そこで、今のHonda FCみたいな所に入って、午前中は仕事をして午後は練習できるとか、それが正しい形なのかどうかは別にして、企業の福利厚生の中で、サッカーをやめた後も会社に残ることも出来て、安定性のある生活を送ることも出来て、それなりに充実感はあったんです。
でもその時の大企業実業団はほとんどプロの方に進んだから、今は会社単位でサッカーに取り組むところも少なくなって、製造業を中心に5年先まで製造予定がいっぱいだったのが、今は半年先くらいまでしかいっぱいじゃないとか、そういう背景もありますが、であれば新しい形で、仕事はバラバラでも、それが終わったらみんなで集まってサッカーをするっていう、そんなチームがあってもいいし、仮にそんなチームが天皇杯でJクラブを破ったよと、それだって立派なストーリーですし、プロ化するって言わないと人が集まらないとか、そういう考え方ではなくて、今の時代に則したサッカーチームを作ったらいいんじゃないかと、僕はそう思うんですよ。だから社会人リーグって凄く意味があるんです。』
社会人サッカーの意義
ー社会人サッカーは存在価値も意義もあるのだから、よりその存在感を示していかなくてはいけないのに、今はまだ十分に表現出来ていないし、世間に対して提示出来ていないと、そう思われておられると。
『チーム名もやたら横文字になるじゃないですか。(笑)
要は「ウチは将来的にプロを目指していますよ」って言う、どちらかと言うと企業イメージを離れようとするけれど、果たしてそれがいいのかどうか。今の若い選手たちもそこを冷静に見分けなくちゃいけないのに「このクラブは将来プロ目指しているんだよ」って、ただそれだけでそこに行くんですよ。でも、僕も水戸時代はそう現場に対して言っていましたからね(笑)
じゃあ今ウチの流経大ドラゴンズがJFLに参加するにあたって、年間3000万円掛かっているんだと、キミらの保護者からは1円も貰わずに3000万円用意しているんだと、飛行機で移動するし、新幹線で移動するし、ってやっているけど、相手のチームは龍ヶ崎までバスで来るんだぞと、お金がないから、潤沢な資金がないからバスで来るんだと学生たちに言うわけです。
陸路で行けそうなところは、JFLのチームであってもバスで来るんですよ。試合は大体日曜日の13:00キックオフですから、試合が終わって16:00くらいにはバスでここを出て、10時間、12時間かけて帰って、朝方到着して、ちゃんと8時とか9時とかから出勤するんだぞって、そういう話も学生にするんです。
社会人の人がどんだけ大変な思いをしてサッカーを続けているか考えてみろと、あの人たちは本当にサッカーが好きなんだよと、キミらは飛行機に乗って帰ってきているのに、月曜日に「かったりぃ」とか言っているけど、ダメだろと。
社会人の人たちは実力も将来的な可能性もキミらより少ないかも知れないけれど、サッカーの好きさ加減はキミら以上のものがあって、家族を持ってても、その範囲の中であれだけ一生懸命、力がなくてもどうやって勝とうかって、考えてやってるんだよと、キミらはこれだけの環境の中でやっているのに、こないだだって2-0で勝っていた試合を2-4までひっくり返されて(松江で行われた対松江シティ戦)僕はもうブチ切れて「俺の前で二度とプロになるとか言うな」って言って、チームとは違う便で帰ってきましたから(笑)』
ー流経大の選手たちは寮もあるし、練習環境もいいし、それなのに!って言うことですよね?(笑)
『社会人チームは週に2回、何とかみんなで集まって練習してというところだってあるのに、大学生は毎日練習して「プロになりたい」って言ってやっている割には、全然クオリティが上がっていかないところなんかを見ちゃうと「キミらサッカーでどうこうなんて言うのもうやめろよ」と言いたくもなりますよ。でもそれはサッカーを辞めさせたくて言っているんではないですよ。どんだけ恵まれた環境で日々過ごしているのかと、もっと努力しなよって言う意味なんですけど、今の子はなかなかそれを感じることが難しくもあるんです。
今はどこの大学に行っても人工芝じゃないですか。もう彼らにとって練習グランドが人工芝であるのは当たり前なんです。
ウチの卒業生でJ2やJ3に行った選手たちであっても、みんな「大学の時の方が環境が良かった」って言いますよ。
本当はもっと伸びてもおかしくないと思ってます。だから不満はあるんですよ。
僕らの時代と比較してはいけませんが、これだけの環境の中で大学スポーツを4年間やれるって、僕らはグランド整備しては先輩に怒られ、引いたラインが少し曲がっていると言われて正座させられ、今は練習中に水も自由に飲めるし、好きにトイレ行けるし、僕らは2時間の練習中は水を飲めなかったから、今思えばよく死ななかったよなと思いますけど、いろんな面でその時代を知っているだけに「もっと努力しろよ」と、彼らは努力した先にプロがあるんですよ。
僕らは努力してもプロはなかったから、このまま大学サッカーを全うして、そのあとどうすんだよと。
それで教員になれば指導者を一番長くやれるかなと、僕も教員になったわけで、要は教員になりたかったわけじゃなくて、長くサッカーと向き合っていく為には、安定した仕事は何かって考えて教員になったんですよ。でもある種そういう考えは凄く重要で、サッカーで食っていこうとしても実力が伴わないときに、サッカー以外でちゃんと食っていこうと、でもボクはこのレベルでサッカーを続けたいんだという考え方を持たせてあげないと、みんなが「プロ、プロ、プロ」って言って背伸びしてそこに入ってくんですよ。』
【中野雄二(なかのゆうじ)】
1962年東京都出身。
高校1年時、3年時に古河一高で全国高校サッカー選手権大会優勝。(3年時は主将)
法政大では2年時に総理大臣杯優勝。(4年時は主将)
大学卒業後、1985年より水戸短大附属高(現水戸啓明高)に教諭として赴任。サッカー部監督も務め、弱小チームだった同校サッカー部を5年後には県準優勝にまで導く。
1991年、プリマハムに社員として勤める傍ら、プリマハム土浦FCの前身プリマハムアセノFCのコーチとなり、チームがプリマハムの単独出資となった1992年以降は監督となる。
同年茨城県社会人サッカーリーグで優勝、1994年に関東サッカーリーグ昇格、1996年に全国地域サッカーリーグ決勝大会(地決)で準優勝し、チームはJFL昇格を果たす。
1996年シーズンが終わると、プリマハムがプリマハム土浦FCの運営から撤退。当時茨城県リーグに所属していた水戸FCと統合する形で1997年に誕生した水戸ホーリーホックで監督と常務取締役を担うも、チームがJFLで最下位となり1シーズンで辞任。
1998年にかねてより要請のあった流通経済大サッカー部監督に就任。以来大学サッカー界を牽引する指導者として、数多くのサッカーマンを世に送り出している。
流通経済大社会学部教授、全日本大学サッカー連盟副理事長、関東大学サッカー連盟副理事長