最高に説得力のない「勝利至上主義からの脱却とは?」

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レイソルが負けると。。

例えば柏レイソルが負けてしまった時。

私が真っ先に案ずるのは妻のメンタルなのであります。

J2に降格した今シーズンのレイソルも、やっぱりそんなに易々と勝たせて貰えないわけで、それにしても思っていた以上に引き分けたり負けたりしておりまして、まあ、引き分けであればまだしも、負けたりした日には、それから暫くの間、妻の前でレイソルの話やサッカーの話を出しにくい生活を送らざるを得ないのです。

この状態になってしまうと、もはや私の言葉など無力で

「でもさ、江坂はなかなか良かったし、相手だってなかなかいいチームだったよ」

などと言ったところで全く取り合ってもらえません。

「レイソルの選手たちが頑張ってるのに報われないのが可哀そうなんだよ。私は選手たちが笑ってるのを見たいの」

と返され、しばし不穏な空気が我が家に流れるのがオチなのです。

どうしてこんな事になってしまうのか。

私としても家内安全を求めようとすればするほど「レイソルよ、とにかく勝ってくれ!」と本気で願ってしまうこともありますが、それでもレイソルが負けてしまった時に

「おいレイソル!勘弁してくれよ!今日からしばらくの間、我が家に不穏な空気が流れちゃうじゃないか!」

とはならないのでして、それはどうしてかと言えば、レイソルが勝とうが負けようが、私自身の中にその試合に対する率直な思い、例えば「今日は相手の方が1枚上手だったな」とか「ほとんどの選手がダメダメだったけど、交代出場してきたあの選手は少しだけ流れ変えたよね」とか、そういう風に試合を「心に刻む」作業を無意識に出来ているからでありまして、単純に「勝ったからOK」「負けたからダメ」という風には考えなくなっているからなのです。

勝利至上主義的な

一方で我が妻については、ピッチ上で起きていることを自分の価値基準で判断することをしていません。

私からすれば、彼女がサッカーどころかスポーツすらろくにしたことがない人で、今こうして日立台に通うようになったきっかけも私が「行こう」と言わなければそうはなっていなかった人だったとしても、ピッチから感じたことをそのまま自分の感性のままに評価したらいいのにと思ったりもするわけですが、なかなかそうも簡単にはいかないようで、どうしても「勝ち・負け」にプライオリティを置いた評価で完結させてしまう。

どうも彼女は「勝ち=素晴らしい」「負け=ダメ」「引き分け=心の置きようが定まらない」といった具合に、レイソルの試合を‟総括”してしまうきらいがある。

つまり妻の心の中に、本人が意識しているか否かは別にして「勝利至上主義」的な価値観がドンと腰を下ろしてしまっていているのです。

しかし、私が妻から感じる、こうした「レイソル観」「サッカー観」「スポーツ観」が、決して彼女だけの特別な感覚だとは思っておりませんで、むしろこの日本社会においてはそれが王道ですらあって、だからこそ「勝つ=観客が増える」「負ける=観客が減る」といった現象についてもそれが‟当然のこと”として多くの人たちに認識され、それがさらに先鋭化した光景が「連敗=ブーイング」「残留争い=バス囲み」「降格決定=社長謝れ」であるようにも思うのです。

「勝利至上主義からの脱却」とは

とは言え「勝利至上主義」という言葉自体が、ネガティブワードとして捉えられるムードも少なからずあって、そのアンチテーゼとして「勝利至上主義からの脱却」というような言葉を聞く機会も増えてきてはいます。

ただこうした場合でも「勝利至上主義からの脱却」という言葉だけが独り歩きしてしまっている節があって、地に足がついていない様に思えるケースもあるし、中には「勝敗とは別に価値基準を作ろう」といった感じで、何やら「ビジネス啓蒙セミナー」の如く、雲を掴むような話が始まってしまうことも多い。

もちろん理屈としては「勝敗とは別に価値基準を作ろう」はあながち間違っていないと私も思いますが、何だか「脱却!」とか言った割にはオチが弱いと言うか、大勢の人たちが信じてきた価値基準を「脱却!」つまり「捨てろ!」としているのに「作ろう!」では少々無責任に思ってしまう。

そこで私はここに「勝利至上主義からの脱却」とは何なのか、誠に僭越ではございますが、それを2つのキーワードを使い最高に単純化して定義させて頂こうと思います。

では参ります。

「勝利至上主義からの脱却」

先ずはこれを成すために必要となる心構えから書いていきましょう。

これはズバリ

キーワード①「負けをいかに受け入れるか」

なのです。

スポーツに勝敗はつきもので、いつもいつも勝者の側にだけ居られるわけがないと言う当たり前過ぎる事実。

冷静に考えればこれを理解出来ない人はいないはずですが、どうもこの「当たり前」をすっかり忘れてサッカーに寄り添っているように見える方が少なくないわけです。

応援しているチームが勝った時の心持ちを作るのなんて簡単です。だけど負けた場合だって本当はそれほど難しくないはず。

何故なら我々は人生の中で、負けたこと、挫折した経験はイヤと言うほど積んできていますよね。

サッカーだってこれと全く変わらないと私は思っています。

そして、この「負けをいかに受け入れるか」これを踏まえた上で

キーワード②「自分の感性を信じ試合を評価する」

これが出来れば、もうその人は「勝利至上主義から脱却」をしたも同然でしょう。

自分が応援するチームの姿、それが勝った姿であっても負けた姿であっても、それを「勝敗」だけで心に刻むのであれば、スポーツ新聞の片隅に掲載されている試合結果を満員電車の中でサラッと見ただけの人にだって出来てしまう。

でも、思い入れがあるからこそ、スタジアムで、或いはDAZNで、或いはツイッター実況で、その試合を「自分ゴト」として体験した張本人だからこそ、感じられることが必ずありますし、そこで感じたことを信じ、いい試合だったのか、ダメな試合だったのか、面白い試合だったのか、つまらない試合だったのか、それを考えることも出来ると思うのです。

もちろんこれは「満員電車の中でサラッと試合結果を見た人」にも出来ることです。0-1というスコアに何が潜んでいるのか、それを自らの頭をフル回転させながら思いを巡らすのだって、結構楽しいはずです。

つまり、「勝ち=素晴らしい」「負け=ダメ」と「勝敗」でだけで試合やチームの評価をしてしまうのは、サッカーに寄り添っていく上で一番大切な「で、自分はどう思うのか」という部分を他に委ね過ぎであると、私は思うのです。

他に評価を委ねるな

そこには、サッカー経験の有無なんて全く関係ありませんし、それこそ「サポーター歴」なんて微塵も関係ありません。

初めてそのチームの試合を見た人も、25年くらい見続けている人も、それぞれがそれぞれの感じたことを信じて、試合やチーム、選手たちのことを評価することがとにかく重要で、そうやって幅広い見方が生まれてこないことには、サッカー文化が深まっていくこともない。

少し見方を広げてみましょう。

「俺は勝敗だけでなんかサッカーを見てないよ」と言われている方の中にも、解説の戸田和幸さんの言葉にその評価を委ねてしまっている人はいるんじゃないですか?

「勝敗」ではなくても「戦術論」の正解を他に求めて「フットボリスタ・ラボ」にすがってしまっている方もいるんじゃないですか?

重要なのは「サッカーが分かっている分かっていない」ではなく「自分で考えているかどうか」

とは言うものの、レイソルの敗戦とともに訪れる我が家の不穏な空気を甘んじて受け入れている私がこう書いたところで、何の説得力もありませんが。。

頑張れ!

って言うか

俺も頑張るから

5回に3回くらいは

勝て!レイソル。

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