ドイツサッカーの父
ある人に勧められ「コッホ先生と僕らの革命」という映画を観ました。
この映画はドイツにサッカーを伝え「ドイツサッカーの父」と今も呼ばれている教育者コンラート・コッホの伝記映画ですが、私はこの作品を見たことによってある事実に気づかされました。
1873年と1874年。
ともに19世紀末、江戸が東京に名前を変えた明治元年が1868年ですので、時代で言えばまさに明治の黎明期となりますが、実はこの2つの年、そのそれぞれが日本とドイツにサッカーが伝えられた年でもあるのです。
日本にサッカーが伝えられた時期については諸説あり、日本サッカー協会が支持している説は1873年に築地にあった海軍兵学校で英国海軍中佐が紹介した時とされているようですが、それよりももっと早い時期に伝えられていたとする説もあり、コンラート・コッホが英国留学から故郷ブラウンシュバイツバイクへ戻り、そこでサッカーを伝えたとされる1874年とほぼ同時期、説によってはそれよりも以前に日本にサッカーが伝えられていたのかも知れないという事実。
現在にあってサッカー大国と呼ぶに相応しく、これまでにあらゆる面で日本サッカーが手本としてきたドイツサッカーが、実は日本サッカーとほぼ同じ歴史の長さしか持っていなかったことに対する衝撃。
作品の中に描かれているコッホ先生の物語にはかなりの脚色が加えられ、あくまでも「フィクション」の域を出ないものだと明言されてはいるものの、その時代背景を含め、およそ150年の歴史の中で、両者に埋めがたい距離が生じてしまっているのはどうしてなのか、それを考えずにはいられませんでした。
両国の間にある埋めがたい距離
日本サッカーとドイツサッカーの間にある埋めがたい距離。
これは何もそれぞれの代表チームがこれまでにどんな活躍を見せてきたかという部分だけを指しているのではありません。
勿論、かたやW杯決勝トーナメント進出3回の国、かたやW杯優勝4回の強豪国ですから、そこに相当な実績の差が存在しているのも間違いありませんし、ドイツがこれまでに輩出してきた名選手は同時に世界的な知名度を誇る選手でもあって、その域に達している日本人選手は未だ誕生していないと言うことも出来るでしょう。
しかしながら、それらはあくまでも両国におけるサッカーの在り方、それによって生み出された結果でもあり、恐らくはその「在り方」こそが決定的な「埋めがたい距離」を作ってしまっているように私は思うのです。
作品の中のコンラート・コッホは英語教師で(実際はラテン語教師だったそうです)自らが英国で「楽しんだ」フットボールをドイツ語に翻訳し子どもたちに教えます。
“football(フットボール)”→”Fußball(フースバル)”
といった具合にです。
コッホの大きな功績のひとつがフットボールのルールブックを全てドイツ語に翻訳したことであるのは良く知られたところだそうで、確かにそう言われてみればドイツでは‟goal”が‟tor(トア ドイツ語で門を意味する言葉)”とされているのを見たことがあります。
サッカーのゴールはいかにも「門」と表現するのにぴったりな感じがしますが、少なくとも英語のgoalに「門」という意味はないでしょう。
そしてここからは推測も混じりますが、この時、コンラート・コッホが英国のフットボールをフースバルと母国語に翻訳して伝えたのは、当時のドイツ社会に英語を解する人がほとんどいなかったことが多分に影響していたのは間違いありませんが、それ以上にフットボールをフースバルと翻訳しなくてはいけない、その必要性を感じていたのではないだろうかと私は思うのです。
そしてそれこそが、英国の「スポーツ」という概念をなるべく正確にドイツ社会へ伝えようとする意志ではなかったかと、私はそう思うに至りました。
スポーツという概念
当時のドイツはやっと1つの国(ドイツ帝国)として歩み始めたばかりで、その後に起きる第一次大戦を前に国力を必死になってつけようとしている時代でもありました。
そうした時代背景の中、教育も国家統制のもと行われ、子どもの運動についても軍事教練の色合いを強く感じさせるものであったとされています。
作品の中で、フースバルを正式に教育カリキュラムに採用するか否か、その判定をする軍人が視察にやってくるシーンがあるのですが、その際に1人の軍人がこう言います。
「こんな規律に欠けたものはダメだ」
ボールを巡って両チームの選手たちが入り乱れる様子は、確かに整列し身体を同じように動かしながら行う体操などと比較すれば「規律に欠けた」無秩序なものに見えたはずです。
しかしフットボールの、そしてスポーツの本質は「遊び」であり、これはその語源となったラテン語デポラターレ(deporatare)の意味するとことが「日常生活の労働から離れた、遊びの時空間。余暇、余技、レジャー」であることからも明らかで、おそらくコンラート・コッホはフットボールをドイツに伝えたと言うよりも「スポーツ」という概念自体をドイツに伝えようとしたのではないかと私は思うのです。(実際にコッホがより熱心に伝えたのはラグビーであったという話や、女子スポーツのためにハンドボールを考案したともされています)
我々は理解出来ているのだろうか
ではコッホがドイツにサッカーを伝えたのとほぼ同時期にサッカーと初めて出会った日本についてはどうであったのか。
実は日本においても「スポーツ」がその概念も含め文化に入り込むチャンスはあったようです。
1875年頃東京大学に赴任した英国教授の書いた著書「Outdoor Games」が「戸外遊戯法」と訳され、その中にはあらゆる英国由来のスポーツについての情報が盛り込まれいました。
フットボールも勿論その中にあり「スポーツ」は「遊戯」という言葉に訳されてもいた。
しかし時勢的に兵隊訓練や男子の心身鍛錬の場に「スポーツ」が活用されるようになると「遊戯」という言葉は不適当とされ、それに代わって「運動」や「体育」という言葉が誕生するのです。
軍事教練の色濃かった運動教育に「スポーツ」という概念を取り入れていったドイツ
「スポーツ=遊戯」と伝わっていながら、それが国情により「体育」へとすり替わっていった日本
ほとんど同じ時代に英国からフットボールが伝わったこの2つの国で育まれていったサッカー文化、或いはスポーツ文化に、埋めがたい距離が生じてしまったのは、それが伝えられた直後にこうしたボタンの掛け違いがあったからではなかったか。
もしかしたら我々は未だこの魅力的なサッカーと言うスポーツを十分に理解出来ていないのかも知れないし、十分に楽しむことが出来ていないのかも知れない。
「コッホ先生と僕たちの革命」を観てそう思わずにはいられませんでした。