Jリーグクラブの存在価値をどこで決めていますか?

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サッカークラブの価値はどこで決まる?

サッカークラブの価値をどこで計るかと言われれば

「どれだけ多くの人々にとって必要とされているか」に尽きる。

と先日【Jリーグ「クラブ」と「チーム」 皆さんはどう使い分けていますか?】というタイトルをつけたブログ記事の中で私はそう書きました。

記事の中で私は、「クラブ」という言葉と「チーム」という言葉、この一見同じように感じられる2つの言葉が意味するところ、その違いについて

『大雑把に言えば、「クラブ」が目指すべき基本的な考えは「勝ち負けだけが大切ではない」であり、「チーム」が目指すべき基本的な考えは「勝つことにこそ意味がある」

としたうえで、Jリーグをはじめあらゆるカテゴリーのサッカーを見渡してみても、その「チーム」が勝利を目指しそこに執着する姿を見ることは出来ても、多くの「クラブ」「勝ち負けではない部分」つまりそのクラブが「永く存在し続ける」ための施策を打ち、先を見据えたアクションを出来ていないように感じることも少なくなく、そこに対する危惧についても触れました。

クラブが「永く存在し続ける」ためのアクションを出来ていなければ、「チームが勝つことにだけが関心の対象」になっているファン・サポーターがどんなに必死になって応援したところで、クラブ自体が先細り、あるいは消滅してしまう可能性も孕んでいるわけで、永くそれを楽しもうと思うからこそ、目指すべき「勝ち負けだけが大切ではない」という視点を愛するクラブがしっかり持てているか、そこにも敏感であった方がいいと私は思っているのです。

クラブがファンを創り出す

ただそうは言っても「勝ち負けだけが大切ではない」というこの言葉自体が具体性を帯びた言葉ではありませんし、じゃあサッカークラブの価値としてそれをどこで計るべきか、何が出来ていればヨシとなるのか、それを指すキーワードとして

「どれだけ多くの人々にとって必要とされているか」

が最も端的な表現であると考えるに至りました。

極端な言い方をすれば、現状、JリーグやJFL、地域リーグの中でも「Jを目指す」と公言しているようなクラブの多くが「チームが勝利する姿」を必要としているファン層しか掴めていない。と私は感じています。

あくまで「極端な言い方」です。

個別にはもちろん「そうではない!」とおっしゃりたくなるファンの方もいらっしゃるでしょう。

ただ、どのJクラブの公式サイトを見ても思いますけど、そのコンテンツのほとんどがリーグ日程やそのチケット情報で埋め尽くされていて、そのクラブがどうして存在しているのか、その地域で何を目指し、どういうコミュニティ、カルチャーを創造していこうと思っているのか、といった「核」の部分が完全に抜け落ちているか、申し訳程度に掲載されているケースがほとんどで、こうした実情を見れば見るほど

「勝ち負けでしか自分たちの価値を計ってくれないファン・サポーター」をクラブ自らが創り出しているようにしか私には見えないのです。

京都サンガ時代の祖母井さん

先日関東サッカーリーグ所属VONDS市原FCのトレーニングを見学しに彼らの専用トレーニング施設(クラブハウス併設)VONDSグリーンパークに行き、そこでクラブの祖母井秀隆社長と少し長めに話し込んだのですが、その際に祖母井社長が京都サンガでGMをされていた時代のお話を伺いました。

サンガの練習場を地元の野菜農家に開放してマルシェを行ったこと、宇治茶農家にJr.ユースの選手たちを宿泊させて繁忙期のお手伝いをさせたこと、京都西陣織などで使われる金糸をユニフォームの胸に入ったエンブレムと袖に入った「京都」の刺繍文字に使用して新たな活用販路を見いだそうとしたこと、、、、

その間、祖母井社長の口からは「サッカー」の「サ」の字もほとんど出てきませんし、当時所属していた有名選手の名前も出てこない。

むしろ出てくるとすれば、人工芝の練習場を開放しようと決めた時「現場は必ずしも賛同してくれなかった」というエピソードを話された時くらいで、その後も次々と京都サンガというサッカークラブを媒介した地域コミュニティとの繋がりについてのお話が続きました。

『京都ではほんとうに色々なことをやりましたよ、ほんとうに楽しかった』

と心の底からそう話される祖母井社長は、それと同じマインドで今まさに市原の地でVONDS市原という地域リーグクラブを使って新たな挑戦されようとしている。

『毛利さん、私はこのクラブハウスと練習ピッチの間のこの部分にプランターを並べて地域の方たちと一緒に植物を植えたいと思っているんですよ』

こう祖母井社長が話された時、私には目の前に見えている練習場に華やかさが加わった光景を思い浮かべましたが、祖母井社長の考えはさらにその先を行くものでした。

『毎日この練習場に犬を散歩させながらやってくるおじいさんがおられるんですが、そのおじいさんに植物の水やりをしてもらおうかなと、そうすればここに来る目的が1つ増えますよね』

どれだけ多くの人々にとって必要とされているか

私がレイソルを応援しに行っている日立台には、毎試合必ず「観戦」しにいらしている「ベッドに寝たきり」のレイソルファンの方や車椅子のレイソルファンの方がおられます。

あの方たちにとってレイソルとは日立台とはどういう存在なのだろうか。

例えばレイソルが連敗したりJ2に降格したとして、彼らの中で柏レイソルに対する「必要度」に変化はあるのでしょうか。

きっとあの方たちにとって重要なのは、この先もずっとベッドや車椅子のままでも日立台に入場できることであり、もっと言えば柏レイソルがずっと無くならずに存在し続けることなのではないでしょうか。

そして「どれだけ多くの人々にとって必要とされているか」

それは必ずしもクラブの存在する地域だけに限定されないでしょう。

例えばFCバルセロナやマンチェスター・シティには、その地域に暮らしているファンの何百倍、何千倍といったファンが世界中にいるわけです。

つまりサッカークラブとは、普段全く異なった境遇にある人同士を結びつけるツールであって、それによって作られるコミュニティそのものを指しているのではないか。

その中にはもちろん、チームが勝つ姿だけが見たい、強いチームを応援したい、といった趣向を持ったファンも含まれますが、それはあくまでもサッカークラブが持つ数多な方向性のうちのたった一部であって、その絶対数にも限りがあるはず。

特に「J1に昇格したから観に行こう」とか「J2に降格したからもう行かない」というファンだけを相手にしながら経営体として生き残っていこうとすれば、「サッカーで勝ち続ける」という世界中のどのクラブも成し遂げたことのない、ほとんど不可能と言えるミッションに向き合う必要が出てきてしまうわけです。

W杯で優勝することよりも

VONDS市原の祖母井社長のお話を聞いていると、実はサッカークラブが考えるべきことは「サッカー以外」のことであるのかも知れないとすら思えてきます。

京都サンガの練習場で行われたマルシェに参加した野菜農家の方も、Jr.ユースの選手たちが草むしりを手伝った宇治茶生産者の方も、金糸の活用法に思い悩んでいた職人の方も、京都サンガというサッカークラブと想像もしていなかった接点を作ることになった。

そしてきっとそれぞれの方が京都サンガというサッカークラブの必要性を僅かでも感じてくれたことでしょう。

ただ、その先導役として『京都での仕事を楽しんでいた』祖母井GMは、チームが2年連続でJ1昇格プレーオフに敗れ、結果としてその1年後にクラブを去ることになり、京都サンガのユニフォームの胸に光っていた金糸刺繍のエンブレムもプリント仕様に戻ります。

「どれだけ多くの人々にとって必要とされているか」

日本代表がW杯で優勝することよりも、私は断然こちらの方が重要ではないかと、思うのです。

何故ならW杯で優勝した後も、日本のサッカー文化は続けていくべきなのですから。

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