「クラブ」?「チーム」?
「クラブ」なのか「チーム」なのか。
例えば柏レイソルを応援されているとして、皆さんはレイソルのことを「クラブ」と表現されていますか?それとも「チーム」と表現されていますか?
私の中でそこは割とはっきり線引きがされていて、「クラブ」と表現する場合はレイソルを経営している側、もちろん社長もそうですし、運営スタッフ、育成スタッフ、財務や広報、そして厳密に言えば選手の獲得などに直接的に関わってくる強化部も含めた意味で使っています。
一方で「チーム」と表現する場合は、トップチーム選手、監督やコーチ、そしてメディカルスタッフ、主務、こうしたいわゆる「現場」で戦っている人たちのことを指して使います。
そして最近この「クラブ」という言葉と「チーム」という言葉、この2つをちゃんと使い分けることが重要と言うか、例えば柏レイソルというひとつの組織についてものを考える時にも、「クラブ」と「チーム」という2つの言葉の使い分けをちゃんと出来ていないと、混乱してしまったり要らぬ衝突を招いてしまったりというのに気がついてきまして、今回はそれが具体的にどんな事象を指しているのか、自分自身の中で整理する意味も込めてまとめてみたいと思います。
「勝利至上主義」と「反勝利至上主義」
Jリーグファン・サポーターの間では良く「勝つことにこそ意味がある」という主張が聞かれることがありますが、これに対して「勝ち負けだけが大切ではない」というカウンターが放たれるシーンも目にします。
この2つの相反する意見「勝つことにこそ意味がある」と「勝ち負けだけが大切ではない」が、水と油のように互いを相容れない主張として捉えられていることも多いですが、私は最近この2つの主張がそれぞれに正しいと思えるようになってきました。
つまり、この2つの主張は本来同じ土俵の上で戦わせる種類の意見ではないと、頭の中でだいぶ整理出来てきたのです。
と言っても、「同じ土俵で戦わせる種類の意見ではない」=「考えの次元、フェーズが違う」のようにどちらかを上どちらかを下とするような解釈ではなく、この2つの主張が実はそのまま「クラブ」と「チーム」という2つの括りに置き換えて解釈出来ることに気がついたとでも言いましょうか。
大雑把に言えば「クラブ」が目指すべき基本的な考えは「勝ち負けだけが大切ではない」であり、「チーム」が目指すべき基本的な考えは「勝つことにこそ意味がある」であるという解釈が出来ることに気がついたわけです。
この根本的な考え方が多くの議論の場で少々混同されてしまっているからこそ、「勝つことにこそ意味がある」=勝利至上主義と、「勝ち負けだけが大切ではない」=反勝利至上主義とが互いを理解し合えないまま、ずっと平行線をたどってしまっているのではないかと、そこに思えるようになったのです。
「目先の成果」と「遥か先の世界」
私自身が柏レイソルのファンですので、今回はレイソルを例に続けさせて頂きますが、今シーズン5年ぶりに柏レイソルで指揮を執ることになったネルシーニョ監督に与えられたミッションは「J2優勝」あるいは「J1復帰」であって、その指揮下に置かれるチームスタッフ、そして全選手がそこに向かって戦っていくのは当然のことですし、彼らはそこで評価もされます。
チームはこのシーズンを終えた時に、再びJ1の舞台へ戻る仕事を完遂させていなくてはいけませんし、その為に1試合1試合どころか、1つのプレー、もっと言えばトレーニングの段階、日常生活で口にする食べ物にまでこだわりをもって「戦う」ことが求められます。
そこを追求し続け、試合に勝てばミッション完遂に近づくことが出来ますし、負けてしまえばそれが遠のく。
そんな常に追い詰められた状況の中で、言ってみれば「目先の成果」に執着する日々を過ごすわけです。
今シーズンレイソルが掲げたスローガン「VITORIA(ヴィトーリア。ポルトガル語で勝利を意味する)」はまさにそんな日々を過ごしていく選手たち、チームスタッフ、そしてネルシーニョ監督の戦いを方向づける旗印でもあって、だからこそ「チーム」スローガンでもあるわけです。
その一方で「クラブ」としての柏レイソルは「勝ち負けだけが大切ではない」を基本的な考えとしていくべきで、そうあるべきと思う理由を端的な言葉で表現すると以下になります。
「サッカークラブは永続的であれ」
これはJリーグに限らずどのカテゴリーにも共通する「サッカークラブの目指すべき姿」だと私が思っていることですが、チームが「目先の成果」に執着する他方で、クラブは常にその遥か先の世界を見据えておく必要があるのではないかと、そうでなければチームが「目先の結果」に執着することすら出来なくなってしまう可能性もあるわけです。
Jクラブはちゃんと未来を志向できているか
例えば柏レイソルの場合、確かに現状としてチームは約10シーズンぶりにJ2を戦うことなり、多くのファンやサポーターにとってもなかなか現実を受け入れることの難しい時期にあると言えるでしょう。
アントラーズやレッズとジリジリするようなリーグ戦を戦うことも出来ず、J1と違って日立台で行われるホームゲームに集まる観客の数も減少するかも知れませんし、アウェイ側のゴール裏も常に満員とはいかないかも知れません。
だからこそ「チーム」は1年でのJ1復帰を目標とし、多くのファン・サポーターがそれを全力で応援します。
ただ、柏レイソルを「クラブ」という視点でとらえた時、その強化部は今シーズンのチーム編成を考えるのと同時に、育成組織(アカデミー)でプレーしている選手の情報を育成部と共有していく必要もありますし、サッカー界のトレンドをしっかり掴んだうえで、それこそ5年後、10年後のチーム編成もイメージ出来る体制でなければプロ組織とは呼べないでしょう。
そしてこうしたことは、選手育成や選手編成という側面だけに限らず、柏レイソルがこの先もずっと多くの人々に愛される存在として生き残っていく為に、敢えて「目先の結果」に執着しない施策を打ち出し取り組むという作業を連続させていく必要もあるんだと思います。
そしてここからが今回私が最も書きたかったことでもあるのですが、
とは言うものの、実際のところこの「クラブ」と「チーム」との目指すべき方向の違い、特に「クラブ」の側が「勝ち負けだけが大切ではない」と志向出来ているケースが案外少ないのではないかと、そこに対する危惧を感じる場面に度々遭遇するのです。
もちろんその危惧は柏レイソルだけに向けているわけではありません。
浦和レッズを見ていても、鹿島アントラーズを見ていても、マリノスを見ていても、コンサドーレもフロンターレも、どこを見てもその危惧がゼロだと思えるところはない。
価値は必要性で決まる
少し話を変えましょう。
私は柏レイソルの存在意義、存在価値をどこで計るのかと言われれば、それは「どれだけ多くの人々にとって必要とされているか」に尽きると考えています。
そういう風に考えるようになって以来、レイソルがどのカテゴリーで戦っていようが、それこそ勝とうが負けようが、そこだけに執着することはほとんどなくなりました。
レイソルの価値は「強い」からではなくその「必要性の大きさ」で決まる。
「必要性」が大きくなるほど、レイソルは永く存在し続ける可能性が高まります。
もちろん中には「レイソルが強い」ことだけにしかその「必要性」を感じることが出来ないファンもいるでしょう。
しかし、果たしてそうしたファン層だけに承認されるようなコンテンツとしてレイソルが存在し続けて良いのか、反対に言えば「レイソルが強いこと」にしか必要性を感じられないファン層だけでは、もうこれ以上柏レイソルの必要性が大きくなっていくことにはあまり期待出来ないんじゃないか、これこそが私の感じている危惧の核心部分です。
私自身、レイソルが日立台で開催するホームゲームはほぼ皆勤で応援に行っていますが、そうであっても現在のJリーグに必要なのは「シーズン中に3回スタジアムへ来るファンを皆勤ファンの5倍生み出すこと」であり「DAZNでしか観戦はしないけれど家庭や職場でレイソルの話に花を咲かせてくれるファンを生み出すこと」であるのではないか。
つまりJリーグに「どっぷり浸かって」はいなくとも、日常の一端にレイソルを、Jリーグを置いてくれる人たちを増やしていくことにこそ、柏レイソルのそしてJリーグの将来に活路を見いだす為のカギがあると、そう思えるようになった。
クラブが「強いことにしか必要性を感じることが出来ないファン層」に向けた耳心地の良い言葉、例えば「Jリーグチャンピオンを目指します!」「J1に昇格します!」と声高に叫んでいる姿を見る度に最近は
「ここにはそれしか売るものがないのだろうか」と思ってしまうのと同時に
「もうここは先が長くないかも」という思いまでが浮かんでくるようになってきました。
そして、そんなクラブの叫び声を受け取る私たちの側も、「クラブ」と「チーム」それぞれが見つめ、追求していく先に違いがあること、それを十分に理解し、時には応援し、時には諫める、そんな関係性を愛するクラブとの間に持つべきではないかと、そう思うのです。