今回から2度に渡って、あるサッカー選手へのインタビューを中心とした記事を書かせて頂きます。
山口俊輔選手は現在30歳。
彼がFC KOREAに在籍していた2018シーズンに知り合いました。
東南アジアやニュージーランドでのプレー経験もあり、日本人選手でありながらFC KOREAでプレーしたという珍しい経歴の持ち主でもある山口選手が、2019シーズンは埼玉県リーグでプレーします。
1回目となる今回は、山口選手がどうして海外でプレーしようと思ったのか、その疑問に対しての答えを中心に書いてきます。
「サッカーだけで生活できる」環境を求めて

「僕、その時消防士やってたんですよ」
2019シーズンから埼玉県サッカーリーグ1部、アヴェントゥーラ川口で再びプレーすることが決まっている山口俊輔選手。
そんな山口選手の口からこの言葉が発せられたのは、彼が「サッカーだけで生活出来るところでプレーしたい」と海外移籍を本気で考えはじめた頃の自分を振り返った時。
浦和で育った山口選手は、浦和レッズJr.ユースから高校サッカーの強豪武南高校へ進学し、帝京大学サッカー部を卒業すると、消防士を本業としながらアヴェントゥーラ川口で約3シーズンプレーした。
「サッカーだけで生活できる」タイへの海外移籍。
チームのスポンサー企業でもある海外移籍エージェント会社に1年目の契約料約20万を払い、月に6万円の給与しか支払われないタイ3部リーグへ。
山口選手がこの決断をする時には、当の海外移籍の斡旋をするエージェントにすらこう言われたという。
「本当に消防士辞めちゃっていいの?勿体なくない?」

幼い頃からプロのサッカー選手になることは夢であり目標であった、それでも大学サッカーを終えると同時に公務員という道を選んだ自分。
大学時代までに共にボールを蹴った仲間たちの中にはJリーガーを目指し海外でプロとしての挑戦をしている選手もいた。
「大学を卒業する時、ここでプロになれなかったんだから、働きながらサッカーが続けられればいいかなと思っていたんですけど、やっぱりどこかで諦めきれない引っ掛かる部分がありました」
当時所属していたアヴェントゥーラ川口でプレーしながらカテゴリーを上げていきサッカー選手としての価値を高めていくことも勿論可能ではある。しかし現状としては県リーグ(6~7部相当)とJリーグとの間に存在する歴然とした「距離の遠さ」も痛感していた。
「正直、日本の社会人でやっていればサッカーで結果を出さなくても生活に支障はないじゃないですか、でも向こうに行けば試合で結果を出せなければ1年契約であったとしても普通に解雇されてしまう世界なんです」
そうした極めてリスクの高い環境に身を置き、自分自身を追い詰めることで、サッカー選手としての価値を高めていく上での活路を見出す。
「公務員にして社会人サッカー選手」という立場を捨て、山口選手がタイ3部フテラシーカFC(現在は存在しないバンコクのチーム)へ移籍したのは2014シーズンのことだった。(ちなみにこの2014年当時、タイでプレーする日本人選手は60人ほどいたようだが、現在はアジア選手枠の多くを韓国人選手が占める状況に変わってきたとも言われている。)
フテラシーカFC(タイ3部)半年で契約を切られる

クラブからは住まいが提供され、月に約6万の給与があればバンコクであっても独り暮らしは十分に可能な条件。
もちろん「プロサッカー選手像」として思い描かれるような贅沢な生活は出来ないものの、少なくともクラブが給与を払ってくれるシーズン中に限っては、完全にサッカーを中心とした生活を送ることが出来る。
しかしながら、山口選手にとって冒険とも言えたこの海外移籍は、決して順風満帆とは言えなかった。
「今にして思えば自分の認識が甘かったんですが、開幕戦のすぐ後にバイクタクシーに乗って事故に遭ってしまって、膝を怪我してしまったんです」
「サッカーだけで生活できる」環境とは言いながらも、決して高給取りとは言えない外国人選手にとって、移動手段としてのバイクタクシーは非常にポピュラーな乗り物でもあり、そう考ええると、このようなリスクは避けるのが難しいものでもあるのだろう。
結局この時に負った怪我の影響で戦線復帰に2か月以上を要し、その間チームの成績も芳しくなかったことも重なって、当初2年契約を結んでいたフテラシーカFCからハーフシーズンで契約を切られてしまう。
ランサン・ユナイテッド(ラオス1部)予想外に快適な環境

フテラシーカFCとの契約を切られてしまった山口選手は、多くの東南アジア各国と同じようにリーグが春秋制シーズンで開催されているラオスへそのプレーの場を求め移籍した。
当時のラオスリーグはプロリーグとして設立されて数年しか経っていない未熟なリーグではありながら、山口選手の移籍先ランサン・ユナイテッド(首都ヴィエンチャン市のチーム)は人気チームの1つでもあり、待遇もタイ3部と比較して明らかに恵まれていた。
「僕は条件高くなかったですけど、それでも練習給や勝利給を合わせると月に10万を少し超えるくらいは貰っていましたし、外国人選手は全員ホテル暮らしをさせてくれていたので快適でした」
ラオスリーグは外国人選手登録枠が8名とタイに比べ多かったことで、山口選手以外に日本人選手がチームに2人所属していた。
「向こうに行って1年目で怪我をしてタイで契約を切られて、僕もメンタル的に結構キツい時期でしたが、同じチームにいた日本人選手が東南アジアでのプレー経験の豊富な方だったことで、いろいろ学ぶことが出来たのが凄く大きな体験になったんです」
ラオスで海外移籍1年目の後半を過ごした山口選手は翌シーズンの契約延長話も貰っていたがスムーズに決まらず、次の所属チームを決めるトライアルを受けるためにカンボジアへ渡ったが、カンボジアリーグの開幕時期が大幅に遅れ、ビザ発給期間内での契約が難しくなったところに、泊まっていたゲストハウスで財布とパスポートを盗まれるというトラブルに遭遇してしまったことが重なり、失意のまま一旦日本へ帰国することになってしまう。
カラシンFC(タイ3部)ステップアップを目指して

海外移籍再挑戦となる2016シーズンに向け、2015年12月はタイ国内で行われる、僅か30分程度のトライアルを受けるために、バスや飛行機を使って何時間も掛けた移動する毎日。
やっとのことで契約まで漕ぎつけたカラシンFC(タイ3部)では、怪我にも見舞われたものの、初めて1シーズンをひとつのチームで過ごすことが出来た。
山口選手の東南アジアへの挑戦、「サッカーだけで生活できる」環境を求めた冒険も2シーズンが経過。
年齢的も27~8歳と選手としては最も脂ののる時期へと差し掛かっていた。
「東南アジアで2シーズン過ごして契約条件的にそれほど上げられなかった。でもコンディションも良かったし、2017シーズンに向けたトライアルでは低い条件のチームは受けないで、条件の高いチームと契約を結びたかったんですけれどなかなかチームが決まらなくて…」
結局このタイミングで山口選手の望む条件で契約を結んでくれるチームを見つけることは出来ず、この時期にトライアルを受けに来ていたFC KOREA出身の選手と繋がりが出来たことで、山口選手の2017シーズンは「東南アジアでの挑戦」ではなく「FC KOREAでの挑戦」になるのだが、それについては次回で詳細を書かせて頂こうと思う。
アンダーカテゴリーの選手たちが何故海外へ行くのか

それにしても、想像していた以上にシビアな世界だ。
アンダーカテゴリーでプレーする選手たちがタイやラオス、カンボジアといった東南アジア各国へプレーする場を求めていることを知らないわけではなかったが、決して裕福な生活が待っているとは限らないのに、いや、日本で社会人サッカー選手としてプレーし続けるのに比べたら、ほとんど何の保障もない世界に飛び込んでいくのも同然であるのに、専門のエージェントが存在するくらいのマーケットが確立し、2019シーズンをアヴェントゥーラ川口でプレーすると決めている山口選手にしても「まだ不完全燃焼だし挑戦したい気持ちは持っている」と話している魅力がどこにあるのか。
「サッカーだけで生活したかった」
山口選手はこう話してくれたが、海外の小さなリーグへと移籍する多くの選手たちもきっと根底には同じ思いがあって、それが日本のサッカーシーンでは実現できないと思うからこそ、様々なリスクを承知で海を渡っていくのだろう。
もちろん、その中にはタイプレミアリーグで活躍出来るようなレベルまで評価を上げていく選手もいるだろうが、それもほんの一握り。
「サッカーだけで生活をしたい」という思いを持つ選手が全てプロ選手になれるわけはないが、それでもその身近な目標としてJFLや地域リーグに「サッカーだけで生活出来る」環境が今より少しでも多くあれば、そうした希望を持った選手の居場所が日本のサッカーシーンにも生まれてくるだろう。
サッカー文化を深めていく上で、選手の数をいかに増やして行くか、そして、サッカーを辞めてしまう選手をいかに減らしていくか、この2つのポイントを考えた時に、海外へ活躍の場を求めていく選手たちの存在が「あだ花」であってはならないように思う。