2018全社レポート最終章 「サッカーの町、アントラーズの町、カシマ」

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鹿島に事故(ジーコ)が来る…

「・・・91年か、住友金属に事故(ジーコ)が来るって、こっちのばあちゃんたちは大騒ぎしてたんだよ」

全社(全国社会人サッカー選手権)の試合会場で大会運営側の方と立ち話をしている最中に、おそらく使い古されているのであろうこんな冗談を聞くことが出来た。

Jリーグが始まった年から遡ること2年。当時日本リーグ2部に所属していた住友金属サッカー部に、世界的スーパースターだったジーコがやってくるというニュースが駆け巡った時、私はまだ大学生。

既に第一線からは引退していたジーコであったが、それでもあのスーパースターが日本にやってくる!

今でいえば、ヴィッセル神戸にイニエスタが来ることが発表された時の衝撃以上のものが、当時は超マイナーだった日本のサッカーファンたちを突然にして襲ったのだ。

しかも、彼が行くのはあの「鹿島臨海工業地帯」

もう何が起きているのか完全に理解不能だった。

「臨海工業地帯」が四半世紀でサッカーの町、アントラーズの町に

Jリーグがスタートして四半世紀が経ち、日本人にとって「臨海工業地帯」としてのイメージしか持たれていなかった鹿嶋という町は、すっかりサッカーの、そして鹿島アントラーズの町になっていた。

2002年日韓ワールドカップの会場にもなった世界に誇る「カシマサッカースタジアム」を核に、今回のように「社会人サッカーのワールドカップ」を開催出来るだけのサッカー場が複数整備され、車を走らせれば「アントラーズクラブハウス」がどの方向にあるのか、あちこちに立っている道路標示を見ることですぐに認識出来る。

滞在していた宿があった鹿島神宮周辺の小料理屋や食事処へ行けば、ほぼ間違いなくアントラーズの試合日程が記されたポスターと、選手たちのカッコいい写真が使われたカレンダーが掛かっている。本当にどこを歩いても「アントラーズ」そして「サッカー」なのだ。

私たち、ここで育ちました。

今回の全社で試合会場の「祭り感」を一層強く引き立てていた、地元の中学生ボランティアが「中学生目線で作りました!」と言って渡してくれた大会パンフレットの表紙には「私たち、ここで育ちました。」というタイトルがついていた。

興味が湧き、少し話を聞いてみると彼女たちは鹿嶋市の様々な中学校生徒会メンバーが集まって活動をしていて、この全社に向けた準備も昨年の12月から始まっていたということだった。(もちろん、こうした彼女たちの活動も、来年の国体に向けた「リハーサル」なのだ)

 

「渡す相手が大人だから、内容を考えるのもすごく難しかったよね~」「学校終わってから活動があるから本当に大変だったね~」

と話してくれた彼女たちに、こんな言葉を投げかけてみた。

「おじさんたちが君たちくらいの時は、鹿島って言っても社会科で『鹿島臨海工業地帯』が出てくるくらいで、サッカーのサの字も、アントラーズのアの字もなかったんだよ」

もちろん、こんな話は彼女たちも両親や、じいちゃん、ばあちゃんから嫌と言うほど聞かされていただろうと少し後悔したが、それでも利発な生徒会役員でもある彼女たちはこう言ってくれた。

「そんなの全然考えられないよね~」

刻まれた歴史

私は大会二日目を工業地帯の南端に近い新浜緑地で過ごした後、そこから町の中心へ戻る途中でアントラーズ練習場に立ち寄った。

美しく整備された天然芝ピッチがいくつも並び、クラブハウスも併設されているこの施設は、紛れもなくあの鹿島アントラーズの練習場であり、同時に町の観光スポットにもなっている。

私が訪れた時はちょうどJリーグユースカップの公式戦が行われていて、鹿島ユースを応援するために、ピッチの横にある観覧スタンドには多くの鹿島サポーターが集まり、Jリーグさながらの「アントラーズチャント」が奏でられていた。

スタンドまで足を運んでみると、そこに使われている鉄柵やスタンドの手すり部分などに、何度も塗装が上塗りされた跡を見つけた。

日頃、アントラーズの顔としての役割を果たしているこの練習場が、確実にこの四半世紀の時の流れを刻み込んでいるのだと思えたことには、妙な嬉しさも覚えてしまったが、私がこの鹿嶋という町が「サッカーの町」「アントラーズの町」と思うのに至ったのには、もう一つ大きな要因があった。

野球場のない町

今年の全社では、鹿嶋市とともにひたちなか市もその開催地となっていたわけだが、そのひたちなかで会場となった総合運動公園内にも当たり前のようにしてあった、最も立派な施設がこの鹿嶋には無かった。

それは野球場である。

「無かった」と言い切りながらおかしな言い回しになってしまうが、厳密に言えば野球場はあった。それも実は全社の会場でもあった高松緑地公園内にあったのだ。だから「無かった」ではなく「目立たたなかった」と言った方が良かったか。

しかし調べてみると、この高松緑地公園が出来たのは昭和50年(1975年)で、ジーコがやってきた時期よりも20年ちかく前の、まさに経済成長の真っ盛りな「臨海工業地帯」を象徴するような時代に造られている。

もう少し調べてみると、この高松緑地公園以外にも新日鐵野球場、住金野球場など、まさに工業地帯の中に企業が造った野球場が存在することが分かったが、少なくともジーコが鹿島へやってきた1991年以降は、そんな野球場の数を凌駕する勢いで、サッカーの出来る場所が臨海エリアを中心に造られていったようだ。

ジーコがやって来たのがカシマでは無かったら

私はJリーグがある地方の町で、こんなにはっきりとその影響を受けている町には来たことがなかった。

その多くは、元から存在する「国体陸上競技場」をホームスタジアムとしていたり、街を歩いていてもその日Jリーグの試合があることがことさら意識されているように思えたことはほとんどない。

しかしこの鹿嶋にあっては、ふたこと目には「アントラーズ」が出てくるし、どこにいようとも常に「カシマにいるんだ」と意識させられていたと言っても過言ではなかった。

ただし、これらはあくまでも単なる訪問者である私が抱いた印象であって、あの町で暮らしている人たちが、アントラーズやサッカーをどう見つめ、どう感じているのかについては様々あるのだろう。

そして同時に、あの町に絶対欠かせないのが間違いなく「臨海工業地帯」の方であることも、しっかりと認識しておきたい部分でもある。

さりとて、あの時ジーコがやって来たのがこの鹿嶋で無かったとしたら、たかだか四半世紀で、これほどまでに町の印象を変えることが果たして出来ていただろうか、とも思ってしまう。

ジーコと鹿嶋が抜群に相性の良いコンビであったのは、きっと間違い無いことなのだろう。

大会が行われたカシマのそんな横顔に触れつつ、今シーズンの全社レポートはひとまず終わりとしたい。

 

 

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