「ゴール裏は立って応援する場所 座りたいなら他へ行け」に未来がみえない理由

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猛烈な批難を浴びた「埼スタとイニエスタ」の記事

「イニエスタの連れてきた客」を排除 これが浦和レッズ ゴール裏の常識!?

先日のJ1リーグ「浦和対神戸戦」において、埼玉スタジアムの北ゴール裏に紛れ込んだバルセロナのユニフォームを着た観客を警備スタッフが「排除」したことについて、Jリーグのスタジアムにそのような排他的な光景があって良いのだろうか。という主旨の記事をこのブログに書いたが、予想していた以上に批難や誹謗中傷を浴びることになった。

その多くは「運営側がゴール裏エリアは浦和レッズを熱く応援のためのエリア」と定めていることに論拠を置いたもので、それを守らなかった(対戦相手神戸所属選手に関する応援グッズを身につける。この場合はイニエスタを想起させるバルセロナのユニフォームを着ていたこと)側にこそ責任がある。と言うものであったが、中には「埼玉スタジアムのゴール裏にそんな恰好をして入ってくれば安全は保障出来ない」と言うような非常に物騒な主張を私に向けてくる方もいた。

確かにこれまでの浦和レッズゴール裏の歴史の中で、そうした思わず眉を顰(ひそ)めたくなるような事が起きてきたのだろうし、これは何も浦和のゴール裏だけではなく、他のJクラブゴール裏においても同じことが言えるのだろう。

私が言いたかったのは、何も「ルールを破ってもいいじゃないか」ということではなく、そもそも異なるチームを応援する者同士が隣り合わせになってしまうくらいで争いごとが起きてしまうような状況が、Jのスタジアムの「常識」であっていいのか、人格にかかわるような宗教上の違い、あるいは民族的対立、さらに言えば政治的対立といったものがある訳でもないのに、あたかも対戦相手の選手やサポーターが親の仇であるかのような扱いをしてしまう、そうするのが当たり前と言うような風潮が出来てしまっていくこと、それ自体に異を唱えているつもりだったのだが、それは思った以上に理解されなかったように感じている。

「定め」や「案内」を笠に着る人たち

そこへ来て、日本代表対ウルグアイ代表戦が行われた埼玉スタジアムのゴール裏で『周りが全員立ち上がっているので、子どもを連れて行ったが試合がほとんど見えなかった』という主旨のtwitter上での呟きに対しても、『座って観戦したい人はゴール裏を避けるように運営側が案内している』という意見が多勢を占め、それを笠に着て『安いチケットだと思って買ったあなたが悪い』という論調にまで発展していくのは、ある意味当然であるように思った。

確かに運営側の定める「ゴール裏は浦和を熱く応援するエリア」も、代表戦で案内されている「座って観戦したい場合はゴール裏を避けて」も、正式に記されていることで、現状としてはそれを無暗に破っていいものであるとは私も思っていない。

しかしながら、これらの「定め」や「案内」は、スタジアムの実情を鑑みて運営側が取っている措置でもあって、何もサッカースタジアムの最終形態を示すものでもないだろう。

つまり、浦和のゴール裏についてであれば『対戦相手にまつわるものを身につけた観客が入ってしまうことで騒動が発生し、最悪暴力事件にまで発展してしまう可能性がある』そんな風にクラブの運営側がレッズサポーターの行動パターンを認識している。言ってみれば、クラブ運営はサポーターのことをある側面では信頼していないと言える。

代表戦のゴール裏にしてもそうだ。座席がありながら90分間立って応援している状況など初めてスタジアムに来ようと思った人にはほとんど想像出来ないことでもあって、運営側も「90分ゴール裏で立っているサポーターを座らせる」ことを諦め「座って観戦したい人をそこから遠ざける」手法を取っているに過ぎない。

そうであるのに、運営側が定めたことや案内していることを論拠にして、「仲間以外」がその場所に入ることを強硬な姿勢で拒んでいるかのように見える人たちからは、サッカースタジアムが本来持っている解放的なムードも褪(あ)せて感じられるし、あらゆる世界、あらゆる文化圏で愛されているフットボールというスポーツ自体の価値も、まだまだ十分に享受されていないようにも感じてしまう。

自戒を込めて『狭義の「常識」は振りかざさない』

埼スタで聞いた『伊東純也って誰?』に「未来のJのスタジアムの姿」を感じた理由

前の記事で「伊東純也を知らない人が来てくれたから埼スタでの代表戦は満員になった」と書いた。

そして、そこにあったのは日頃Jリーグの行われているスタジアムとはまた違った光景、ムードであったことも書いた。

箱の中に何が入っているかによって、その箱の持つ意味は変わっていく。サッカースタジアムにもそれと同じことが言えると私も思う。

浦和や代表戦のゴール裏にいる人たちが不死身で、常に決まった何千、何万人が、何があってもスタジアム通いを続けていく。それであれば「定め」を強要するのもいいだろう。でも実際にはそんなことはあり得ない、ファンもサポーターも観客も新陳代謝したり、拡大したり縮小したりしていくものなのだ。

そして今の日本サッカー界にどうしても欠かせないのが、その関心度合いを「拡大」させていくことであるのは明白で、当然ながらスタジアムにも新しいファンをどんどん迎え入れていく必要はある。

その為には今ある「定め」や「案内」が本当に適切であるのか、本来はこうあった方がいいのではないか、そうした視点を全ての人が持てないにしても、現状の在り方に固執したり、狭義の「常識」を振りかざすことは避けたいと自戒も込めて私は思う。

「立って応援していないなんてサポーターじゃない」「代表戦のゴール裏は跳ね方がユルい」

これらが限られたマニアだけの自己満足に過ぎないのだと、自覚するところから始めたい。

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