サッカー専スタの素晴らしさ

サッカー専用スタジアムで観戦する試合が、圧倒的な臨場感と迫力を観客に与えるのは間違いのないことだし、出来ることならJリーグの全ての試合がそうした「サッカー専スタ」で行われていて欲しいとも思う。
「サッカー専スタ」であれば、日立台やNACK5のような比較的小さなところでも、選手たちの息づかいすら聞こえてくるピッチとの距離感を以てすれば、そこにいる観客の心を掴むのも、さほど難しいことではないようにも思えるし、埼玉や吹田、豊田のような巨大スタジアムであれば、ピッチをステージとした大劇場にいるかのような錯覚を観客に与え、特別な時間を過ごしているという、最近流行りの「トキ消費」そのものを享受させることも出来る。
しかしながら私自身、こんな風にサッカー専用スタジアムに対する魅力を強く感じるようになったのは、こうして頻繁にサッカーの試合会場へ行くようになったこの1年の間の話なのだ。
「サッカー専スタは素晴らしい」は比較的新しい価値観
それまでは、サッカー観戦といっても年に1度行ければいい方で、比較的熱心にスタジアム観戦を出来ていた、2006年ドイツW杯アジア予選までの日本代表戦の記憶を振り返ってみても、試合会場が埼玉スタジアムであろうと日産スタジアムであろうと、全くと言っていいほどこだわりは持っていなかった。
そうであったのは、もしかしたら少年期より私のサッカー観戦のベースとなっていたのが国立競技場で、日本リーグや日本代表戦、TOYOTACUPなどのビッグゲームをそこでしっかりと堪能出来ていたことも影響しているのかも知れない。
さらに言えば、埼玉スタジアムも吹田も豊田も、素晴らしいとされるサッカー専用スタジアムの多くは、Jリーグが創設した頃にはまだ存在していなかったスタジアムであって、そういう意味では「サッカー専スタの素晴らしさ」がサッカーファンの間で強く認識されるようになってきたのは、比較的最近の話と言えるのかも知れない。

いずれにせよ、今現在「サッカー専スタの素晴らしさ」を感じている人の多くが、日常的にJリーグをスタジアム観戦している熱心なサッカーファンであるからこそ、その魅力にいち早く気がついたのは事実であろうし、そう考えると、日本のサッカー文化の中における「スタジアム論」についても、Jリーグ四半世紀の歴史の中で、確実に深化してきたと言うことも出来るだろう。
とは言うものの、この「サッカー専スタの素晴らしさ」という「新しい価値観」は、決して世間一般のスタンダードとはなり得ていない。
かく言う私自身が、それについ最近気がついたくらいなのだから、場合によっては「サッカー専スタ」での観戦経験がないJリーグファンにとっても、この「新しい価値観」が共感されているかどうかすら怪しい。
つまり、現段階では「サッカー専スタの素晴らしさ」を声高に叫ぶことは出来ても、それが即社会を動かし、公共事業として新たなサッカー専用スタジアム建設に繋がっていくまでの影響力は持ちえていないと私は考えている。
連合赤軍は革命を起こせなかった

話は飛ぶが、最近あの悪名高い「連合赤軍」による、あさま山荘事件についての書籍を読んだ。
この事件は、1970年初めに学生を中心とした「連合赤軍」のメンバー5人が、軽井沢にあった河合楽器の保養施設「あさま山荘」に立てこもり、死者も複数出した大事件で、当時その模様が生中継でテレビ放送され続けたことでも非常に有名な事件だが、私はその事件のあらましや、そこへ行きつくまでに学生たちの起こした数々の事件の根本に、学生たちの「腐りきった社会を何とか良くしたい」という善意や正義感があったことを改めて知ることが出来た。
彼らは資本家や権力側だけに富が集中する資本主義社会に対する反抗心から、武力による共産主義革命の必要性にこだわり、革命の為に交番や鉄砲店を襲撃し銃を奪い、革命資金を集める為に銀行や現金輸送車を襲い、都市部での活動が難しいとみるや、山岳地にベースとなる小屋を作り転々としながら、銃や爆弾を使った軍事訓練までしていた。
だから「総括」と称された集団リンチで何人もの仲間を殺めたのにも、彼らの中では正当な理屈があった。
『人間は気絶した状態から再び目を覚ますと、真の共産主義化がはかれるのだ』
『殺すのが目的ではない「彼の為に」みんなで殴り、蹴り、絶食させ、柱に縛り付けて小屋の外に放置するのだ、君らも彼の総括を「支援」しろ』

なんでこんなことを書いたかと言えば、彼らが「社会の為」「人の為」と思ってやっていたこと、少なくともその方法論については、到底社会から容認されるようなものではなく、あまりに内的で、あまりに客観性の欠けた、暴論、暴挙でしかなく、その本質部分をどんなに素晴らしいものであると信じていたとしても、それを本当に成し遂げたいと思うのであれば、敵を作り攻撃を繰り返す前に、少なくとも社会から容認されているという状況を醸成するところから取り組んでいくべきなのだという、私が感じとった教訓が、そのまま「サッカー専スタ待望論」とシンクロするような気がしてしまったからだ。
正直に言って「サッカー専スタの素晴らしさ」と連合赤軍の唱える「共産主義社会の素晴らしさ」を並べ立てて何かを論じるのは不適切であるとも思っている。
しかし、ここで私が言いたのは「サッカー専スタの素晴らしさ」を訴えるサッカーファンも、「共産主義社会の素晴らしさ」に駆られた連合赤軍のメンバーも、方や「サッカー界」の為に、そしてもう一方は「世界中の労働者」の為に「何とかしたい」という善意の気持ちを持っている(持っていた)部分については共通しているのではないかと言うこと。
イデオロギーが文化を成熟させる術にはならないことが露呈してきているように、もしかしたら「サッカー専スタの素晴らしさ」も世間一般に理解される時代はやってこないかも知れない。それでもかつての連合赤軍がそうであったように、自分たちだけが理解している(と信じている)価値観を盾に、強硬な姿勢を取ればとるほど敵が生まれ、それが抗うのに難しい勢力となってしまえば、大切な価値観も失い、もうその先に続く道は無くなってしまうかも知れない。
次のステップへの足がかりは

「サッカー専スタが素晴らしい」理由は「野球場が沢山あるから」でも「陸スタがサッカー観戦に適していないから」でもない。
少なくとも公共事業としてのサッカー専用スタジアム建設をイメージするのであれば、何かと対峙したり比較したりすることでその価値を社会に理解してもらうのではなく、その素晴らしさをあらゆる表現方法で伝える努力をし、人々の心を掴むことで、次のステップへと進む足がかりを作っていくのではないだろうか。
「サッカー専スタが素晴らしい」と思うことが出来ている人が、サッカー関係者とマニアックなファンだけであるという自覚を私たちは持つ必要があるだろうし、それを認めることが出来ない限り、その先へ進むことは出来ない。