みゃ長さんの言葉「立派なサポーターになりなさい」

みゃ長さんがほぼ毎試合日立台で配布している自作ステッカー。早い者勝ちで直ぐに無くなってしまう。
日立台で柏レイソルのホームゲームがある時はいつも、入場ゲートを抜けたところでみゃ長さんが来場したファン・サポーターを出迎えてくれている。
みゃ長さんと言えば、柏レイソルサポーターの伝説(レジェンド)のような人で、みゃ長さんと初めて話をした時のことは今も鮮明に覚えているし、とても嬉しい気持ちになったと記憶している。
そんなみゃ長さんが、父親とともに日立台にやってきたレイソルサポーターの少年と交わしていたとても印象深いやり取りがある。
少年「僕は大人になったらレイソルの選手になりたい」
みゃ長さん「そうか。でもな、君たちがみーんなレイソルの選手になっちゃったら、日立台は選手でいっぱいになっちゃうんだ。だからな、君は立派なサポーターになりなさい」
こう言われた少年は、早速父親にこう言っていた。
「僕ね、新しい目標が出来たよ。僕は立派なサポーターになる!」
父親は少し困ったような顔をしていなくもなかったが、私はこの少年とみゃ長さんのやり取りを微笑ましいと思いながら聞きつつも、みゃ長さんの話にサッカースタジアムの真理を感じ、この「立派なサポーターになりなさい」という一聞冗談のように思える言葉こそが、名言そのものであると感じていた。
「観る」サッカーと「する」サッカー
ある週末、私が出がけに近所のコンビニに立ち寄ると、そこには小学生の男の子を2人連れた家族の姿があった。
家族が乗る車には浦和レッズのステッカーが貼られ、父母を含め4人の家族全員が浦和レッズのレプリカユニフォームを着ている。
もちろんその日は浦和レッズの試合がある日で、彼らはこれから試合の行われるスタジアムへ行こうとしているのだ。
そんなJリーグサポーター家族の姿を見ていると、今度はそのコンビニに自転車のカゴにボールを載せ、大きな練習用リュックを背負ったサッカー少年たちが数人やってくる。
そんなことで、ひと時そのコンビニはサッカーのユニフォームを着た少年たちが何人もいる状態になったのだが、方や「観る」サッカー、方や「する」サッカーを目的とする彼らの交わりが、スタジアムや練習グラウンドでもあるのだろうか。と、ふと気になってしまった。
子どもたちはスタジアムにサッカーを「勉強」しにくるのか?!

私の記憶違いかも知れないが、Jリーグが創設された当初、そのリーグ戦開催日を土曜日とすることの理由として「日曜日は少年たちが練習や試合をする日」とされていたように思う。
つまり「土曜日にJリーグを観て、日曜日は自分たちがサッカーをする」ということなのだが、「観る」サッカーと「する」サッカーの両立を創設期のJリーグは重要視していたのだ。
あれから四半世紀の時が経過し、現在でもJ1こそ土曜日開催がベースとなってはいるものの、J2、J3では日曜日に開催される試合も多く、Jリーグ創設時にイメージされていた「観る」サッカーと「する」サッカーの両立が実際はほとんど成立してこなかったように思う。いや、そもそも何を目的として子どもたちに「土曜日はJリーグを観る日」としていたのか、そこについて理由づけが「サッカーを勉強するため」といった競技者志向の発想であったが為に、それがいつしか二の次とされ、徐々に「観る」サッカーと「する」サッカーとの分離という結果を生み出していったのではなかろうか。
マラドーナ=英雄=熱狂的サポーター

昔からよく、少年団の監督やコーチが引率して子どもたちをスタジアムに連れて来ている光景を目にする。
サッカーをする子どもたちが実際にその目でプロ選手のプレーを見て学ぶ。確かにこれ自体は非常に意義深いものだ。
ただし、その子どもたちの中から将来競技者として成功する選手が誕生する可能性は限りなく低いのも事実で、競技者にならない(なれない)子どもにとっては、そのサッカー観戦が学校の課外授業で連れて行かれた観劇や工場見学と同じように「いつどこで見たのか」を思い出せないような単なる集団行動のひとつとして記憶されていくのではないだろうか。
サッカースタジアムという空間で楽しく過ごすことよりも、その試合からの学びを強要されるようなそんなサッカー観戦。
日本サッカーは「する」サッカーに夢中になっている子どもたちを将来のJリーグファン・サポーターにするために必要な「価値の創造」や「仕組みの構築」を決定的に怠ってきたのではないか。
実際、私の周囲だけを見てみても、私と「する」サッカーで繋がっている人たちに限っては、驚くほどスタジアムでサッカー観戦する習慣を持つ人が少ない。
彼らにとっての「観る」サッカーはW杯であり、欧州CLであって、決してJリーグやJFLではない。(ないどころか、Jリーグを「低レベル」「観る価値がない」として切り捨ててしまう人たちまでいる)

本来であれば「する」サッカーに魅せられている人たちこそが、人生を通じてスタジアムでサッカー観戦もするサッカーファンになる可能性を秘めた人たちであるかも知れないのに、実情は決してそうはなっていないことを、これを読んで下さっている皆さんも感覚的に理解してくださるのではないだろうか。
英雄マラドーナが自国のW杯での戦いを無我夢中で応援し熱狂する様子は、滑稽でありながらも酷く愛おしくもある。
マラドーナのような愛すべきサポーターが「する」サッカーに夢中になった人たちの中からどんどん生まれてくれば、日本のサッカー文化は間違いなく次のフェーズへと深化していくのではないかと私は思っている。
ファンやサポーターは意識的に生み出すものであり、その世界を持続発展させていく為に、選手と同じように「育成」していく必要のあるもの。
みゃ長さんの「立派なサポーターになりなさい」という言葉。
やっぱりこの言葉はスタジアムの真理であり名言だ。