2018 柏レイソルの低迷

柏レイソルが低迷している。
シーズン開幕前は優勝すら狙えると言われ、3年ぶりにACL出場権をも獲得したチームが、今季のJ1リーグにおいては開幕以来全く波に乗ることが出来ず、ACLでもグループリーグで敗退、天皇杯もJ2山形に敗れベスト16にすら残ることも出来ていない。
W杯中断期間前に監督も交代し、リーグ後半戦に向けては選手の入替も敢行された。
それでもなお、チームは苦悩を続け、リーグ前半戦で圧倒的な最下位であった名古屋が全く別のチームとなって復調するのを横目に、レイソルにとってのリーグ終盤戦はJ1残留をかけた戦いになっていく可能性も高まってきている。
SNS上に溢れるレイソル批判

昨年の4月からレイソルを応援しはじめた「新参者」の私にとっても、今季のレイソルがここまで苦しむことになるのは完全に予想外の出来事で、「柏から世界へ」というレイソルを象徴するスローガンがこんなにも虚しく響くようになるとは思ってもみなかった。
優勝こそ出来なかったものの、昨シーズンのレイソルはリーグ前半に破竹の8連勝も飾り、終盤にかけての要所で痛い星を落とすことはあっても、全体を通しては「勝ち試合」を見せてくれることが多かったわけで、ファン・サポーターの感情も比較的平穏な年であったのかも知れないが、今季についてはシーズンが深まって行けば行くほどに、その思いが「怒り」や「呆れ」という形で露呈するようになっている。
チームが上手くいかない時に、まず最初に標的とされるのはその指揮官であり、レイソルも前任の下平監督は相当批判、批難されていたし、加藤監督に代わっても戦況に全く光が感じられない中で不満や辞任を求める声が噴出し続けている。
戦況を逆転出来るような人材を指揮官にそえることが出来なければ、クラブ側にもその矛先は向き、レイソルが存在する最大の根拠でもある日立製作所が批判されている場面も私は目にした。
それでも実際にピッチ上で戦う選手たちにまでは大きな批判が起きることは少なく感じてもいたのだが、ここへ来て監督の采配とともに、特に「重宝」されてきた選手にまで「放出すべし」といった主張がSNS上などで散見されるようになってきた。
SNSのムードは日立台ゴール裏にも
こうしたファン・サポーターの心情は、SNS上だけではなく実際に日立台のゴール裏にいても強く感じる。
今シーズンの日立台では、キックオフするまではこれまでと同じように「楽しいサッカー空間」が間違いなく存在するものの、試合がはじまり展開がレイソルにとって不利な状況(先制点を奪われるとか、なかなかゴールを奪えないとか)になるとそのムードが一転し、怒りにまかせた口汚いヤジや罵声がそこかしこから響くようになってしまっている。
そう言えばACLでグループリーグ敗退が決まった直後の試合では、選手を半ば批難するような言葉の書かれた大きな白弾幕が掲げられたこともあった。
Jリーグの日常を見ていれば、こうしてファン・サポーターの「怒り」が噴出するシーンは決して珍しいものではない。そしてこうした「怒りの噴出」を正当化するかのように「不甲斐ない戦いをしているチームを批判も出来ないサポーターはユルい」とした主張も良く目にするが、はっきり言って「Jクラブサポーターはかくあるべき」という理由で、戦績が振るわないチームや選手たちを批判しているのだとしたら、即刻止めて欲しいと私は思っている。
私にとって「応援」とは「励ますこと」

そもそも「応援」というものは、戦いに挑むチームや選手たちの闘争心に火をつけるべく、あるいは自信を抱かせるために、「励ます」ことが目的だと私は思っているし、そうであるからこそ、ファンやサポーターの存在価値はあるのだとも思っている。
常に強力な対戦相手との戦いに挑み、屈強な相手選手と身体と身体をぶつけ合い、数々の実力ある選手と対峙しなくてはならないチームにとって、試合の場はまさに「戦場」であるだろう。
選手やチームを励ますことに重要性が感じられるのは、決してJリーグに限った話ではなく、我が子が少年サッカーの試合に挑む時や、運動会で徒競走を走る時であっても同じだ。この両者には何ら変わりはない。
戦いに挑む人間の不安感や弱気な心を少しでも取り除き緩和させるために、それを支える人間の出来ることは「応援」することであり「励まし続ける」ことであるはずだ。
だから私は日立台のゴール裏で、絶対にネガティブな言葉を選手に掛けないようにしようと心に誓っているし、実際にチームが上手く行っていない時であっても、少しでもポジティブな声を掛けたいと思っている。
チームが自身のアイデンテティ化しているサポーター

ただ、こうした思いも、チームを愛するがために、自分自身のアイデンテティとチームとが同化してしまっているファンやサポーターにはなかなか理解をしてもらえないかも知れない。
彼らにとってレイソルの不振は自分自身の不振でもあり、リーグで下位に低迷するレイソルの姿はそのまま自分自身の低迷を意味し、好調なチームに対しては劣等感を覚え、仮にレイソルがJ2降格ともなれば、それは即ち自らの恥でもある。
そんな風にレイソルと付き合っているサポーターにとっては、不甲斐ない戦いを見せ続けるレイソルが自分自身の価値を蔑む存在にすら見えるのだろうし、それであるからこそ「怒り」の感情が芽生えてしまうのだろう。
こういう風に「レイソル=自分自身」となってはいないのに、何かと言えばチームを批判し怒りをぶつけている人たちは、単に勝馬に乗りたいだけの人だと思うし、そういう風にしかスポーツを楽しむことが出来ない人たちに対しては、また違う思いが私にはあるので、ここでは深く言及はしない。
「正しいサポーターの在り方」とは

ただ、ファン・サポーターの出来ることは「励まし続けること」と私自身がそう信じながらも、実のところそれのみが「正しいサポーターの在り方」などとは思ってもいない。
リーグ戦の全試合を現地観戦すること、何十年にも渡って長くチームを応援すること、ゴール裏でチャントを叫び続けること、etc.
私はこうしたことが即ち「正しいサポーター」の「条件」にはならないと思っている。
自身の生活にどれだけ深くレイソルが影響を及ぼしていようと、それがその人にとって「幸せ」でなければ何の意味も持たないと思からだ。
だから強いて「正しいサポーター」を定義するとすれば、それは「どれだけレイソル(Jクラブ)で幸せを感じられているか」であると思っている。
週末の日立台で選手に対して怒りをぶつけることによって「幸せ」を感じる人にとっては、それが正しい在り方なのだろうし、監督の采配を批判することで「幸せ」を感じる人にとっては、それが正しい在り方なのだ。
私の場合は「励まし続ける」ことが楽しく、そうでなければ「幸せ」を感じられないからそうしているのであって、出来ればそれを共感してくれる人が一人でも増えてくれたらとは思うものの、それが絶対的価値だと思っているわけではない。
「正しいサポーターの在り方」に答えはない

「正しいサポーターの在り方」や「本物のサポーターの定義」について、そこに答えを見いだすのは意味のない行為だ。
自分とは違う価値観、行動原理が渦巻いているのがサッカースタジアムであるし、そうであるからこその混沌がサッカーに深みをもたらせているのは疑いようのない事実でもある。
ただ、もし「正しいサポーターの在り方」について考えるのであれば、自分自身のサポーターとしての哲学、ポリシーを頭の中で整理して考える作業としては意味があるかも知れない。
人間は行動する上での根拠を認識した時に、その行動に対する思いを一層強いものに出来る場合もあるだろう。
揺るがない思いを持てた時、人は必ず強くなれる。
目先の勝敗に一喜一憂していては、自分が何故そこにいるのかを見失ってしまうように私は思う。