「火事と喧嘩は江戸の華」の本意

「火事と喧嘩は江戸の華」
この言葉の持つ本来の意味、ニュアンスについて、最近ひとつ新しい話を聞いた。
江戸っ子にとって、火事は大災害であると同時に、一種の祭りでもあったというのだ。
木造の長屋がひしめき合う江戸の町に一旦火の手が起これば、それを現在のように放水の力で数軒の被害で留めるのは不可能であった。だから火消したちの消防手段は近隣家屋の「破壊」が基本で、火消したちが破壊しやすいように、長屋は薄っぺらい板材で建築され、火事で全焼、あるいは全壊した建物も、3日もすればほとんど復元が出来ていたという。
勿論、度重なる大火は江戸の大きな弱点でもあり、広小路と名のつく大通りは都市計画上の消防対策として設けられるようになったものでもあるのだが、それでも、江戸っ子が火事に遭っても何やら楽しそうにしている様子などが、当時江戸を訪れた欧米人による書見などにも残されているそうだ。
大勢の人の命を奪う火事に対してでさえ、それを起きるものとして受け入れ、楽しむ感性を持っていた江戸っ子が、街中で起きる喧嘩に対しても、ちょっとした高揚感と緊張感を覚えながらも、それを「江戸の華」としてしまう感性を持っていたであろうことは想像に易しい。
SNSで拡散する「安っぽい正義感」

「火事と喧嘩は江戸の華」の例を持ち出して、サッカー場で起きる様々な迷惑行為、理不尽な事象を全て飲み込めとは言わないが、SNSなどを眺めていると、あまりに安っぽい正義感が幅を利かせている風潮にはどうしても違和感を覚えてしまう。
ある時は「傍若無人な振る舞いで後ろの席にいる観客のことを考えずに座らずに観戦している子どもたち」に対して、またある時は「ゴール裏で中指を立て対戦相手の選手やサポーターに対して挑発行為をはたらく輩」に対して、そしてまたある時は「自由席で一眼レフを構え、前を通る観客に向かって『邪魔だ!』と暴言を吐いている観客」に対して。
その対象が数十人のグループや何らかの組織などであるのならいざ知らず、対象が子どもやいちサポーター、いち観客であったりする場合も多く、後でSNSを使って世間一般に広くその迷惑行為を拡散させるくらいの怒りを覚えたのであれば、何故そうした迷惑行為を被ったその瞬間、その段階で何らかの抗議を彼らに向けることが出来なかったのか、そちらの方にむしろ卑屈な心理を感じてしまう。
しかしながら、こうした「安っぽい正義感」は驚くほどのスピードで情報拡散していき、それに同意する人の群れが一気に形成されていく。
そして大抵の場合は、その対象となる個人をスタジアムから排除すべきという論調に収斂されていく傾向が見られる。
ある日のスタジアムで

実は先日、Jリーグの試合を観戦中に、私の後ろにいたある観客とスタジアムの警備スタッフに対してかなり激しく怒鳴りつけてしまった。
状況をもう少し詳細に説明すれば、私は指定席のブロック最後列に座っており、そのすぐ後ろの通路で、男性客と警備スタッフにかなり長い時間に渡って押し問答をしていたのだが(男性客が自分の取った指定席からではピッチ全体が良く見えないので「何とかしろ」と訴えるのに対して、「どうにも出来ない」という警備スタッフの応対で、堂々巡りになっていた。ちなみにその日の指定席は満席)その押し問答が一向に収まる様子を見せず、何しろ私のすぐ後ろでやりあっていたので、次第に試合に集中出来なくなってきてしまったのだ。
「もういい加減にしてくれ、気が散って全然試合に集中出来ない!やり合うんだったら向こうの人のいない所でやってくれよ!」
私の周囲に座っていた人たちも、何ごとかと後ろを振り返る様になってしまっているのを見て、もう我慢出来ずにその二人を怒鳴りつけてしまったのだ。
江戸っ子のような観客に

この日のスタジアムで、警備スタッフの手を煩わせていたのはこの男性だけではなく、私が座っていた指定席から確認出来ただけでも、酔っぱらい大声でヤジを飛ばし指定席エリアに侵入してしまう若いサラリーマンも見ることが出来たし、試合も半ばを過ぎているのに、一向に立見禁止ゾーンから立ち去る気配を見せず、何度となく警備スタッフから注意を受けている観客もいた。
勿論全ての人が、迷惑を被ったからと言って、その相手を頭ごなしに怒鳴りつけることなど出来ないし、私自身もいつもいつもそうやって怒鳴りつけているわけでもない。
しかし、そうした場合の為にクラブはスタンドに警備スタッフを配備しているわけで、どうしても我慢ならない場合は彼らに報告さえすれば、即座に解決するケースの方が多いだろう。
ご丁寧に迷惑行為に及ぶ人間を写真に撮り、それを何の躊躇もなくSNS上に発信してしまう暴挙とは比べるまでもなく、その場で注意したり、警備スタッフに報告をする方がよっぽど確実にその芽を摘むことが出来る。
そもそも不特定多数の人々が大勢集まる場所には、少なからず無法者が混じるのはごく普通のことで、感情が剥き出しになりやすいサッカー場であれば、更にそうした傾向が強まるのは至極当然なことであるようにも思う。
そして、かつて江戸っ子が火事や喧嘩を楽しんでいたように、スタジアムで起こる様々な事象を受け止め、何かが起きても気の利いた切り返しの出来る観客の姿を見ると小気味いい気分になるし、そうした光景が度々見られるような場所にサッカー場がなってくれたら最高だ。そして勿論、私自身もそうした観客になりたいと思っている。