【今そこにあるサッカーを愛せるか】①下手くそサッカー少年が何故サッカーを愛せたのか

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未来の日本サッカー界が、より多くの人々にとって幸せなものとして存在していくために。

錦糸町フットボール義勇軍ロック総統が叫ぶ

「今そこにあるサッカーを愛せ」

この哲学がより多くの人たちの心を揺さぶる時は果たして訪れるのだろうか。

私は自身の過去を振り返り、自分自身が何故これほどまでにサッカーというスポーツに魅了されてしまったのか、その理由がどこにあったのか。

そうしたものが、おぼろげながら頭の中で整理されてきている。

今回は、大テーマ【今そこにあるサッカーを愛せるのか】を語る第1弾として

「下手くそサッカー少年が何故サッカーを愛せたのか」

と題し、私自身の体験に沿った話を書いていきたい。

下手くそ少年は42歳まで公式戦に出場し続けた

私は小学4年でサッカーを始め、中学、高校、大学とサッカー部でプレーしていた。

社会人になってからは、サッカーをする頻度が格段に少なくなったものの、42歳になる頃(今から4年ほど前)まで、東京都リーグ4部に所属するチームでプレーを続け、若い選手の足手まといになりつつもボールを蹴っていた。

もちろんその期間の中で、仕事の事情から何年もチームの活動に参加出来ない時期はあったにせよ、これほどまで長く私がボールを蹴ることになるとは、少年時代の私にサッカーを勧めた今は亡き父も、想像していなかっただろう。

というのも、これほど長い期間サッカーを続けてきたと言いながら、私はそれほど上手な選手ではなかったからだ。言って見れば「脱落者」「下手くそ」選手だったのだ。

弱小チームでサッカーを続けた学生時代

学生時代に所属していた学校のサッカー部はどれも弱小チーム。そんなチームであるから、そもそも大所帯のチームではない。高校時代こそ1学年だけで1チーム揃うだけの部員はいたが、大学サッカー部については、全員そろっても25人ほどの小規模チームだった。

そんなチームの中でも私は決して一番上手い選手ではなく、たまたま左利きだったという理由で11人の中に入れていたようなものだ。

しかし私は、一番上手い選手ではなかったかも知れないが、一番サッカーが好きな選手であったとは思っている。プレーするのは勿論、サッカーを観戦するのも好きだったし、当時月刊で発売されていたサッカー誌(サッカーダイジェスト、サッカーマガジン、そしてイレブンなど)を隅から隅まで読み込むような少年でもあった。

私が何故、これほどまでにサッカーに夢中になれたのか。

それは、私が最初にサッカーを始めたチームのお陰だと思っている。

水と空気のように走り回れる遊び場を

私が小学生だった1970年代後半から80年代前半、東京のど真ん中でサッカーをする少年は皆無に等しかった。それでも暮らしていた自治体が主催した「サッカー教室」に2歳下の弟とともに参加したのは、大学時代にサッカー経験のあった父の勧めがあったからだ。

この「サッカー教室」が発展する形で出来た新しい少年サッカークラブでの経験が私のサッカーに対する向き合い方を決定したといっても過言ではない。

生前、父は私にこんなことを言った事がある。

「うちの中で漫画ばかり読んでいるお前を外で遊ぶ子どもにしてあげたかった。」

そう、それまでの私は友だちと外で遊ぶことの少ない、非常に内向的な子どもだったのだ。

私が小学4年の頃にスタートしたこの少年サッカークラブの基本精神は

「水と空気のように、子どもたちが成長していく上で、走り回ることの出来る遊び場が必要である」

というものだった。

「しごき」「体罰」とは対極にあったサッカークラブ

先行して多く存在した少年野球チームで「しごき」や「体罰」がまかり通っていた時代に、私のサッカークラブでは、そうした「少年スポーツの闇」が微塵も感じられなかった。

サッカー経験のないお父さんがコーチを引き受け、子どもたちと一緒にグランドを駆け回る姿は、今にして思えば「大きなガキ大将」のように見えていたかも知れない。

理不尽に罰走させられたり、怒鳴られたリすることもなかったし、整列を強制されるようなこともなかった。

そして試合が始まれば、上手な子も下手な子も、皆平等に出場機会が与えられた。

内向的だった子どもの世界をサッカーが広げた

小学6年になる頃には、1982年のW杯スペイン大会が開催され、キャプテン翼の大人気もあって、クラスの半分以上の男子が、私のいたサッカークラブに入会するまでになった。

クラスの友達よりも2年早くサッカーをしていた私は彼らより少しだけサッカーが上手かった。そんなこともあって、ほんの2年前までいつも1人部屋で漫画を読んでいた子どもが、一躍サッカー少年たちのリーダーになってしまったのだ。

それからの私は、内向的な少年であった過去をすっかり忘れ、友だちと作るサッカーの世界で本当に多くのことを体験させてもらった。

掃除をさぼってサッカーをし続けたことで、そこにいた全員が原稿用紙10枚分の反省文を書かされたこと。

隣の小学校と対抗試合をする為に、当時校内暴力全盛だった中学校まで恐々グランドを貸して欲しいと申し出にいったこと。

ボールを使った遊びをしてはいけない病院の敷地内にある広場で、おっかない警備員に何百メートルも追いかけられたこと。

サッカーをするのも、みんなで規則を破るのも、勇気をもって高い壁を越えるのも、当時はその全てが楽しくて仕方がなかった。

4700人のサッカー少年たちの受け皿を作ることが「サッカーを愛せる」人を育てる

しかし、私も私の当時の友だちも、サッカーは決して上手くなかった。ただひとつだけ言えるのは、この世代の子どもとしては、サッカーを心底楽しみながら生きていたという事。

少なくとも私に関して言えば、もしかしたら日本で一番サッカーが好きな子どもであったかも知れないと思う時がある。

私はそんな「過去の愛すべき私自身」を現在の日本において、どれだけ多く育むことが出来るか、が日本サッカー界発展の大きなカギであると思っている。

競技者として、選手として大成するのは、サッカー少年5000人に1人とも言われている。この5000人の中でも300人くらいは、選手としての可能性を最後まで追求していくのかも知れない、しかし、それ以外の4700人の多くは「挫折」してサッカーから離れていくのだ。

何故「挫折」するのかと言えば、全てのサッカー少年が「選手」になるという目標以外を与えられず、「上手か下手か」だけでその価値を測られてしまっているからではないか。

1人の優れたプロサッカー選手を誕生させることは素晴らしいことだ、しかしそれと同じくらい、いやそれ以上に、4700人のサッカー少年たちがどうすれば長くサッカーを好きでいられるのか、そうした視点で育成現場を見ていくことこそ、日本サッカー界にとって最も重要な課題だと考えている。

立ち返って欲しい。プロサッカーの世界を支えているのは、選手ではなくファンである。

いくら優秀な選手がいたとしても、それを「見たい」「応援したい」と思う人がいなければ、ほとんど意味をもたない。

私は日本サッカー界が「下手くそにとっても最高に楽しい世界」であり続けて欲しいし、そうなっていかない限り「今そこにあるサッカーを愛せる」サッカー界にはなっていかないのではないかと感じている。

下手くそサッカー少年だった私が、何故現在に至るまでこれほどまでにサッカーに骨抜きにされ、「今そこにあるサッカーを愛せ」という言葉に共鳴出来ているのか、それはひとえに、少年時代に所属したサッカークラブが私にとって最高の「受け皿」となってくれたことに他ならない。

こちらのブログもやってます!

2017年9月から、私が開設しているブログがあります。

ブログタイトルは「ラーテル46.net」

こちらのブログでは主に、私が最近妙に熱心に応援し始めた「柏レイソル」についての内容を多く記事にしています。

まだ始めたばかりのブログではありますが、よろしければ、「ラーテル46.net」も併せてお楽しみください。

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